野村克也 のむら かつや

スポーツ

掲載時肩書シダックス監督
掲載期間2005/06/01〜2005/06/30
出身地京都府
生年月日1935/06/29
掲載回数29 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他
入社南海テスト生
配偶者再婚同士
主な仕事ハワイ遠征、カーブ克服、野球心理学、メモ魔、ヤクルト、阪神、シダックス、楽天
恩師・恩人清水義一先生、葉上照澄師、志太勤
人脈鶴岡監督(確執)、稲尾、杉浦、長嶋、ブレイザー、江夏、古田、星野、矢野
備考敵は我にあり
論評

1935年〈昭和10年〉6月29日 ‐ 2020年〈令和2年〉2月11日)は京都府生まれ。プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家。後妻に野村沙知代。愛称は「ノム」(ノムやん・ノムさん)「ムース」。沙知代との間に息子・野村克則がいる。前妻との間にも息子が1人いる。継子(沙知代の連れ子)に団野村、ケニー野村がいる。

1.捕手は試合の脚本家
捕手は試合を動かす脚本家でもある。そう考えるようになったのは入団5,6年目のころだったろうか。その頃、試合に負けるとよく旅館の大部屋で杉浦らと反省会をやった。「あそこは直球じゃなくて変化球だったかなぁ」。負けず嫌いだったから悔しくて寝られない。「もう一回やらせてくれ」と、いつも思っていた。ある時、改めて気付いた。「オレって、凄いことをしてるんじゃないか」と。サインを出す指一本で試合が動く。「守っているときは監督と同じだ」とも思った。
 書名は忘れたが、ある本に戦いは「戦力」「士気」「変化」「心理」の4要素で構成される、と書いてあった。中でも心理が重要で、ほとんどが心理に基づいている、とある。野球も1球投げるごとに間がある。それは考えるための時間を与えてくれるのではないか、と思った。「野球は運動能力を競うだけではない。頭のスポーツでもある」。そう感じたのだ。それが「ささやき作戦」につながっていった。

2.ささやき作戦
捕手としては独自の「ささやき作戦」を実行する。「野球規則で選手が相手と親睦的態度をとることは禁じられているので、独り言といった方が良いかもしれない。打者が打席で足慣らしをしているときなどに話をする。あまり余計なことは言わない方が好い。例えば、初球を投げる前、「まともに投げるな。ボールから入れ」とか。二球目以降は打者の反応やボールカウントによって「一つ外せぇ」とか「タイミングが合っているぞ」など。そういう一言によって、打者が考えてくれるかもしれない。打撃で一番大切なのは集中力と積極性。それらを少しでも弱められればプラスになる」。この作戦に引っ掛かり、多くの打者が凡打に打ち取られた。

3.カーブ克服(相手投手のクセ見抜く)
入団4年目の1957年、175cmと当時としては体の大きかった私は完全にレギュラーになった。そしてがむしゃらにプレーした結果が30本塁打。22歳にして初のホームラン王に輝いた。表彰式でリーグを代表する中西太(打点王)、山内一弘(首位打者)の両スラッガーと並んだとき、「本当にこの人たちを抑えて本塁打王になったのか」と夢心地だった。しかし、飛躍が期待された5,6年目、カーブが打てなくてダメだった。
そこでバッターとしては投手のクセを研究した。テッド・ウィリアムズの著書『バッティングの科学』から「投手は球種によりモーション時に小さな変化を見せる」を発見し、これを適用・研究してクセを見つけ出す。そして各投手のクセを盗み、球を投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけ、カーブを事前に見破ることで克服した。この結果、戦後初の三冠王に輝き幾多の打撃賞を受賞した。

4.阪神タイガースの弱点
しかし63歳の時、阪神の監督として招聘されたが、期待された実績を残すことができなかった。その理由は、「阪神は生え抜き意識の強い球団で、外から来た人間に強い違和感を持っている。しかも、ファンもフロントも、マスコミまでも選手たちをかわいがる。球団創設60年の中で出来上がった甘えの体質があった。阪神では「体力」「気力」「知力」「技術力」の4要素のうち、もっとも根本的な「気力」の面を問題にしなければならないのは寂しいことだった」と。氏が強く指導した「気力を持ち考える野球ができる選手」が増えたことで、後に星野監督が阪神、楽天を率い日本一になることができた下地を造ったと私は信じる。

追悼

氏は20年2月11日に84歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は05年6月、70歳(シダックス監督)の時であった。プロ野球選手でここに登場した順は、川上哲治鶴岡一人別所毅彦西本幸雄杉下茂稲尾和久、野村克也、長嶋茂雄吉田義男広岡達朗王貞治江夏豊の12人である。

1.私の性格
氏の初日の書き出しは、野球人生「恥」知り成長ー分析力と深い思慮を大切にーでした。そして、「私は才能に恵まれていたとは思っていないし、口達者でもない。長嶋や王のようにまばゆい輝きは放っていない。むしろ地味で口べた、花でいえば月夜に咲く月見草のような存在だった。だから深沈厚重、物事を分析し、よく考える指導者であろうと目指してきた。ヤクルトの監督になったときに「ID野球」というキャッチフレーズを用いた。重要な情報を大切にした考える野球という意味で、球界に瞬く間に浸透した。だが、相手投手の配給を分析し、それを頭に入れただけでは情報を単に「確認」しているに過ぎない。それをかみ砕き、どう生かすかを考えたときに初めて「思考」が始まる」とあった。そしてこの「考える」野球が近代野球に進化していく過程を説明してくれていた。

2.妻:沙知代
彼女との出会いは、南海の監督兼任となった1970年の夏だった。東映戦のため東京・原宿の宿舎に入り、マネジャーと二人で当時近くにあった皇家飯店とい中華料理屋にフカヒレそばを食べに行った。そこに日焼けした真っ黒な顔で店に駆け込んできたのが沙知代だった。おかみさんから彼女を紹介されたが、当時彼女は野球に興味がなく、見たこともなかったらしい。「どういうご職業をされているのですか」と訊ねてきた。「雨が降ったら仕事にならない職業です」。少しひねくれた答えをすると、最初は道路工事の関係者かと思ったらしい。「いやねぇ、監督さんよ」とおかみさんが言うと、今度は建設現場の監督かと。それぐらい野球に対する知識がなかった。
 最初の妻とは離婚中だった。私の若い頃は、野球選手と社長令嬢との結婚が多かった。選手には引退した後に何の保障もない。だから、多くの選手が社長令嬢との結婚にあこがれた。私も先輩の紹介で、中小企業の社長の長女と結婚したが、お嬢さん育ちの妻と貧しい中で育った私とはかみ合わなかった。
 離婚訴訟は長引き、また監督兼任にもなったばかりで指導方針に悩み、精神的にはどん底だった。沙知代はさっぱりした性格。彼女と会って話したり相談に乗ってもらうと、本当に心が癒された。

3.再生工場の成果
監督としてもデータに基づく考える野球を指導し、野球の要である捕手を重要視し鍛え、ヤクルトの古田敦也、阪神の矢野燿大、楽天の嶋基宏を育てた。また、江夏豊を救援投手として、広島を戦力外通告の小早川毅彦や中日を戦力外の山崎武司を見事に復活させた。マスコミを味方につけ選手を誉め、一方で奮起させる手腕は、万民をうならせた名監督だった。

野村克也
2012年5月
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府竹野郡網野町(現:京丹後市
生年月日 (1935-06-29) 1935年6月29日
没年月日 (2020-02-11) 2020年2月11日(84歳没)
身長
体重
175 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1954年
初出場 1954年6月17日
最終出場 1980年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1989年
選出方法 競技者表彰

野村 克也(のむら かつや、1935年昭和10年〉6月29日2020年令和2年〉2月11日[1])は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身[2]プロ野球選手(捕手)・コーチ監督野球解説者野球評論家。後妻にタレント野村沙知代

プロ野球史における屈指の強打者・名捕手として知られ、選手と監督の両方で3000試合(いずれも歴代2位)を達成した唯一の人物。当時歴代最多のシーズン52本塁打、戦後初の三冠王をはじめとする数々の記録を打ち立て、実働26年でベストナインを19回獲得(歴代最多)、オールスターゲームに21回出場(歴代最多)。監督としても24年間(うち選手兼任8年)で歴代2位の試合数を重ね、数多の人材と名言を遺した。

  1. ^ 野村氏の息子・克則氏は涙 「急すぎて受け入れられない」 死因は妻と同じ「虚血性心不全」」『デイリースポーツ』2020年2月11日。2020年2月11日閲覧
  2. ^ 野村克也さん死去、84歳 プロ野球・阪神などで監督、京丹後市網野町出身」京都新聞、2020年2月11日。2020年2月18日閲覧[リンク切れ]
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