遠藤実 えんどう みのる

芸術

掲載時肩書作曲家
掲載期間2006/06/01〜2006/06/30
出身地東京都
生年月日1932/07/06
掲載回数29 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
小学校
学歴その他名文
入社日東紡
配偶者3上21歳
主な仕事空の祝儀袋8、門付け芸人、流し、コロンビア、ミノルフォン、社長失敗、フリー
恩師・恩人松村又一 、中山幸市
人脈「お月さん」藤島桓夫、馬淵玄三、「からたち」島倉千代子、舟木一夫、橋幸夫、千昌夫、五木ひろし、森昌子、「くちなし」渡哲也
備考貧乏で人情の機微を学ぶ
論評

1932年(昭和7年)7月6日 – 2008年(平成20年)12月6日)は東京生まれ。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人である。名曲を作るのに悲惨な人生を経験しないとダメなのかと考えさせられた内容でした。氏の父は廃品業者だったため、生活が苦しく高等小学校しか出られず、すぐに紡績工場の見習い工となり働き始めました。また、農家に奉公に出たりしたものの歌手になりたくて旅芸人と一緒に門付けで歌ったり、失敗して上京し、ギター流しで酒場めぐりをしながら人生の機微を学んだといいます。

1.父親からの祝儀袋
歌が好きだったので工場の若い女子工員を相手に歌い人気を博していた。あるとき地方回りの楽団がきたとき、飛び入りで歌うと、この楽団から声がかかり、歌手として楽団員になる。初舞台は母親が半ズボンを2つ継ぎ合わせて作ってくれた衣装だった。歌い終わったあと、楽屋に帰ると祝儀袋が8つも届いていた。町長、後援会長、町会議員そして父の名前もあったが、開いてみると全て空っぽだった。怒りがこみ上げ叩きつけようと思ったが、筆跡をよく見ると全て父親であった。「息子の晴れの門出を祝ってやりたいが金がない。せめて祝儀袋でも」と思ってくれたのが分かり、目頭をぬぐった手で、封筒の束を上着のポケットに押し込んだ。

2.望郷の詩を作る
「お月さん今晩は」藤島桓夫、「からたち日記」島倉千代子、「浅草姉妹」こまどり姉妹、「アキラのダンチョネ節」「付いて来るかい」小林旭、「高校3年生」舟木一夫、「他人船」三船和子、「困っちゃうな」山本リンダ、「星影のワルツ」「北国の春」千昌夫、「くちなしの花」渡哲也など、全て氏が憧れた高校生活や都会からの望郷の思いを詩とメロディに託しました。若き日は衣食住の全てが乏しくいろいろな人情に触れましたが、その貧乏の奥底からの魂の叫びがメロディとなって飛び出した感じです。自然に湧き出る旋律に人々は涙し、熱い思いを重ねました。

3.糟糠の妻への感謝
氏が最終稿で、3歳年上の糟糠の妻を失い、今までの幾多の彼女の労苦に感謝しながら「人の世に涙の川があり、苦労の山もある。その川を渡るとき、その山を越えるとき、歌という友がいる。」と結んでいました。弟子入りしてきた千昌夫に「高校3年生」を歌わせると、民謡調で歌うので、曲が違ってしまうという。歌手の個性を見つけ生かすのが優れた作詞家や作曲家の才能となるようです。

遠藤 実
2002年4月
基本情報
別名 星幸男[1]
野原耕[1]
米田信一[1]
継正信[1]
ベン・ミラー
生誕 (1932-07-06) 1932年7月6日
日本の旗 日本東京府南葛飾郡吾嬬町
(現・東京都墨田区立花
死没 (2008-12-06) 2008年12月6日(76歳没)
日本の旗 日本東京都中央区
ジャンル 演歌
職業 作曲家
活動期間 1952年 - 2008年

遠藤 実(えんどう みのる、1932年昭和7年)7月6日[2] - 2008年平成20年)12月6日)は、戦後歌謡界を代表する作曲家の一人である。東京府南葛飾郡吾嬬町(後の東京府東京市向島区、現在の東京都墨田区立花[2]に生まれ、杉並区南荻窪1丁目に居住していた。

  1. ^ a b c d 『涙の川を渉るとき 遠藤実自伝』巻末掲載の「遠藤実作品リスト」を参照。
  2. ^ a b 『涙の川を渉るとき 遠藤実自伝』14頁。
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