掲載時肩書 | 博報堂最高顧問 |
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掲載期間 | 2009/04/01〜2009/04/30 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1920/02/02 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 89 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 武蔵 |
入社 | 大蔵 |
配偶者 | 医師娘 |
主な仕事 | 海軍短現、旅順、マレー半島、捕虜16月、池田(秘書)銀行局長、第一・勧銀合併(佐藤、福田、澄田、近藤) |
恩師・恩人 | 池田勇人 |
人脈 | 近衛文麿(道隆次男と友)、山本有三、奥野誠亮、土田国保、益田孝(父友) |
備考 | 父外科医 茶道 |
1920年2月2日 – 2010年6月30日)は、日本の海軍軍人・大蔵官僚、実業家。国税庁長官を経て博報堂代表取締役社長を務めた。1982年聖シルベステル騎士団長勲章、1993年日本宣伝賞大賞を受賞。1975年7月より博報堂代表取締役社長の福井純一が自ら副社長に降格して、近藤を社長に迎えた。博報堂としても国税庁長官経験者としても異例の就任であった。その後、瀬木博政前会長の告訴を受けた東京地検特捜部により福井が特別背任で逮捕されたが、近藤は社長になってから売上高を前年比173億円増に押し上げた。1983年、博報堂代表取締役会長。1994年2月1日より博報堂代表取締役。2002年6月25日より同社最高顧問。
1.近衛文麿公の苦悩
昭和16年12月、開戦から20日余りが過ぎた12月30日、前触れもなく箱根湯本にあった「萬翠楼福住旅館」の夕食の席に招かれた。会食者は4人。「勝った勝ったとみんな舞い上がっているが、本当に困ったもんだねぇ・・・」。庭に臨む広い和室に端座して、近衛公が甲高い声で口火を切る。
近衛公からその席に呼ばれたのは「路傍の石」で有名な作家山本有三さん、元内務大臣安井英二さんと私の3人だけだった。私は武蔵高校2年のときから、近衛公の次男道隆さんを囲む勉強会の一員だった。会の呼び掛け人が公と旧制一高で同級だった山本さん。私が会に欠かさず出席していた関係で、学生の身でありながら声がかかったらしい。
宿の浴衣を着た近衛公は言った。「ハワイで軍艦を10隻や20隻沈めたといって国民は舞い上がっているけれど、アメリカと戦いを始めたのはいかにもまずい。陸軍は私に対米交渉をやらせまいとするし、アメリカは最後になって、中国大陸から1兵残らず撤兵しろとプリンシプルにこだわり、極めて挑発的だった」。
曲折はありながらも、対米英戦争の回避に腐心してきた公は、力及ばず軍部に押し切られる形で遂に開戦となってしまったことを、どんな思いで受け止めていたのだろうか。口ひげを蓄えた端正な面立ちに、苦渋の色が張り付いていた。
2.東条英機首相の祝辞
昭和17年〈1942〉9月25日の卒業式は安田講堂で行われた。式が始まると東条英機首相が登壇した。当時の新聞を見ると「本日ここに東京帝国大学卒業証書授与式の挙行せらるるにあたり、親しく英気はつらつたる諸君に接し」と祝辞を述べはじめ、2千百余人の卒業生は粛然として聴き入ったことになっている。しかし実際はかなり違う。
首相は「諸君は繰り上げ卒業だけれども卑下することはない。繰り上げ卒業でもめげなかったおーきな実例」と、「おーきな」で張り上げそうになった声を普段の調子に戻し「一つの実例がここにある。士官学校を日露戦争で繰り上げ卒業した自分が今日、伝統に輝くこの東京帝国大学の壇上に立っている」と言った。そのとき会場のどこかから笑い声の塊がさざ波のように広がった。冷笑のようでもあり苦笑のようでもあった。
陸軍士官学校を繰り上げ卒業となった自分は今日、首相に上り詰め、最高学府の君たちにこうして祝辞を読んでいるんだぞ。そう言っているように聞こえたからだった。
3.池田勇人蔵相の人柄
昭和31年(1956)年末、私は石橋湛山内閣の蔵相に就任した池田さんの秘書官を命ぜられた。池田さんは度量と人情の人だった。後のことだが、池田邸で首相になっていた池田さんと話していると大平正芳官房長官が来て「田中角栄を大蔵大臣にしてやってください。一生裏切らない男ですから」と言った。そんな話を私が聞いていても気にする様子はなかった。
歴代秘書官にこんな歌が伝わっている。
1.新橋赤坂聞こえは良いが、知っているのは女将の顔と電話番号と道順ばかり、秘書家業はつらいもの。
2.今日は土曜日服部あたり、彼女待ってる約束なのに、知るや知らずやデーズン様は、ブザー鳴らして長っ尻。
2番の「服部」は銀座の服部時計店で「デーズン」は大臣のことだ。ブザーは大臣が秘書官を呼ぶときに使う。たまに池田さんの酒席で控えていると、池田さんはこの歌を聴きたがった。私が「デーズン様」のところでしかめっ面をして大臣に指をさす。すると、当のデーズン様は腹を抱えて笑った。