掲載時肩書 | 囲碁棋士 名誉名人 |
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掲載期間 | 2024/05/01〜2024/05/31 |
出身地 | 韓国 |
生年月日 | 1956/06/20 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | |
学歴その他 | 東京韓国学校 |
入社 | 木谷門・内弟子(6歳) |
配偶者 | 21歳で6歳上女性と結婚 |
主な仕事 | 10歳自殺未遂、11歳初段、独立、名人、本因坊、棋聖、大三冠、交通事故、天元、王座、グランドスラム、本因坊10連覇、世界戦、タイトル記録76,韓国シニアリーグ、 |
恩師・恩人 | 木谷實先生、兄・祥衍 |
人脈 | 林海峰、石田芳夫、加藤正夫、小林光一、坂田栄男、大竹英雄、宮本正樹、井山裕太、 |
備考 | 叔父・趙南哲(韓国囲碁レジェンド)、兄弟も日本棋院生、 |
氏はこの「履歴書」に登場した橋本宇太郎(囲碁9段、王座・1957.5)、瀬越憲作(名誉9段・1958.12)、高川格(名誉9段、本因坊・1961.5)、坂田栄男(名人、王座、本因坊・1964.10)、藤沢秀行(王座・1993.2)、林海峰(名誉天元・2003.7)、大竹英雄(名誉棋聖・2013.7)、小林光一(名誉棋聖・2020.6)に次いで9人目である。6歳で韓国囲碁の天才児と期待されて来日したが、先輩に天狗の鼻をへし折られて挫折。10歳で初段が取れなくて日光華厳の滝で自殺未遂をおこすが、立ち直っての奮闘記だった。
1.日本行きの決意
父の囲碁は趣味の範囲だが、父の弟である趙南哲は、韓国囲碁界のレジェンドとも称される人物だった。ボクが日本でお世話になる木谷實九段は、トップ棋士の一人でありながら多くの弟子を育成した人物。その木谷先生のところにいち早く韓国から来て入門したのが叔父の趙南哲で、まだ戦前の37年、14歳だ。
入門して4年で韓国人として初めての日本棋院棋士となり、戦後は戻って韓国の囲碁界をけん引した。プレーヤーとしても韓国ではしばらく無敵の存在だった。そんな凄い叔父さんが居たせいか、ボクの兄たちも囲碁には熱心だった。長兄で15歳年上の趙祥衍は、ボクより一足先に日本棋院のプロになった。ボクの日本行きを言い出したのは長兄の祥衍で、叔父の南哲に歯が立たなかった兄は、19歳のときに一念発起して来日。木谷道場に入門したが、すぐに日韓のレベルの違いに驚かされる。
祥衍は賢い人だったから、自分がその年齢から頑張っても追いつかないことをすぐに気づいた。「もっと小さい時から鍛えないとダメ。自分は間に合わないが、6歳の治勲ならまだ大丈夫。すぐ日本に来させよう」。祥衍は両親を粘り強く説得し、当初反対していた両親も同意してくれたが、口減らしの意味もあったかも。
2.林海峰先生と公開対局
ボクが叔父の趙南哲に連れられて羽田空港に着いたのが1962年8月1日。その翌日には大舞台での公開対局が待っていた。東京・大手町のサンケイホールで行われた「木谷一門百段突破記念大会」だった。
一番手で舞台に登場したのがボク。公開早碁の相手をしてくださったのは当時20歳の林海峰六段だった。
中国上海市出身だが4歳から台湾で育ち、その後来日。後に名人戦などで活躍し、台湾囲碁界のレジェンドともなる大棋士だ。
手合いは五子局。囲碁は、力量の差がある人が対戦するときは、弱い方が最初にいくつか石を置く「置き碁」の形をとる。ボクが黒石を5つ盤上に置いて対局が始まった。林先生が穏やかに打ってくださったのが大きい。プロがケンカ腰で勝ちにくればひとたまりもないが、おめでたい席の子供相手の対局でそこまでする必要はないし、林先生はそういう無理な手を打たない棋風でもある。結局、118手で林先生が投了してくださった。会場は大きな拍手で包まれたそうだ。しかし、良かったのはその日だけ。次の日から厳しかった。
3.木谷實道場と内弟子
内弟子というのは、師匠と生活を共にしながら修行する弟子のこと。特に木谷先生は弟子の育成に熱心で、才能があると思えば国内外を問わず呼び寄せて育てようとした。40年余りの間に、通算で50人以上のプロ棋士を育てられた。ボクが入ったときはボクが最年少で内弟子は10人ほど。ほかに通いの弟子も同じくらいいて、先生のお子さんが7人。合わせて30人近い大家族の中に、いきなり放り込まれた。
最初の頃、先輩たちが「ちょっともんでやろうか」といった感じで声を掛けてくれて練習碁を打ったが、韓国の碁会所とは違うレベルがすぐ分かる。公開早碁での林海鋒先生みたいに優しくは打ってくれない。特に当時は「鬼の住処」ともいえる状況で、とんでもなく強い先輩がたくさんいた。後に24世本因坊の称号を持つ石田芳夫さん、名誉王座となる加藤正夫さん、それに佐藤昌晴さんや久島国夫さんは、当時、まだプロになっていなかったものの、すでに平凡なプロを凌ぐ実力を備えていた。
4.坂田栄男先生の激励言葉「負けてよかったんだよ」
ボクの名前が少し知られるようになったのが若手の出場するテレビの早碁棋戦。テレビ東京主催の新鋭トーナメント戦だった。74年12月、ボクは日本棋院選手権戦の挑戦者に名乗りをあげる。翌年、関西棋院選手権戦と統合されて天元戦という七大タイトル戦になる、大きな棋戦だ。
当時、日本棋院選手権者だったのが坂田栄男先生。昭和の名棋士で、当時54歳。通算タイトル獲得数64のほとんどは30代半ば以降に取ったもので、この年齢でも「シノギの坂田」「カミソリ坂田」と称される鋭い棋風は健在だった。そんな雲の上の人と盤を挟むのはまだ2回目だったし、五番勝負そのものも初めての経験だったが、当時18歳の怖いもの知らずは、勢いにも乗って1,2局を連取。タイトル獲得にあと1勝と迫った。こうなると地元の韓国からも報道陣が来るなど、周囲もざわざわし始める。印象深いのは一つ返された後の第4局。白番のボクは我ながら見事な打ち方で局面をリードし、99.9%の勝利を確信したが、大ポカをしでかし、取れていたはずの相手の石が生き返り、一気に負けてしまった。この負けが尾を引き、10日後の第5局も敗れ、2連勝後の3連敗で初タイトルの夢は露と消えてしまった。
第5局の後に坂田先生がおっしゃった「負けてよかったんだよ」という言葉が印象的だった。若いうちに負けて覚えることも多いという意味だったのだろう。含蓄のある言葉だった。
5.藤沢秀行先生に勝ち大三冠
1982年の棋聖戦の挑戦者にボクはなった。タイトルを保持していたのは当時57歳の藤沢秀行先生だった。通称シュウコウ先生は棋聖戦がスタートして以来の6連覇中。読売新聞主催の旧名人戦や天元戦など第一期のタイトルが多く、「初物食いの秀行」とも言われた。
しかし、開戦が始まるといきなりこちらが3連敗。ボクが油断したわけでもないが、「芸の秀行」の面目躍如たる内容で、一気に土俵際まで追い詰められた。「名人本因坊がこのまま一つも勝てないのでは、余りにも情けない」。北海道小樽市での第4局は、こちらも必死だった。双方、ほとんど悪手のない、内容ある一局だったが、終盤、何とか競り勝つことができた。そしてここで流れが変わり、残りの三局も勝つことができた。瀬戸際からの奇跡の4連勝だった。
七大タイトルの中でも棋聖、名人、本因坊は2日制七番勝負で覇権を争うビッグタイトルだったが、この3つを史上初めて併せ持つことになった。いわゆる大三冠だ。
6.中国・韓国の追い上げ(世界戦のルール)
ボクが本因坊を10連覇していた1990年代は、世界戦が盛り上がってきた。当初は日本が頭一つ抜けていたが、90年代前半で流れが変わり、96年に三星火災杯、97年にLG杯と韓国主催の世界戦が始まった辺りでは韓国勢、中国勢の追い上げが目立ってくる。特に初めは韓国勢の台頭が著しかった。
主役は李昌鎬(イチャンホ)さんで、富士通杯や三星火災杯、LG杯などで優勝を重ね、トッププレーヤーとして君臨した。その李さんを育てたのが曺薫鉉(そうくんげん)さん。李さんとの子弟コンビが韓国囲碁界に果たした役割は計り知れない。その後、AI(人工知能)と最初に対決して話題になった李世石(イセドル)や、目下、世界ナンバーワンとも言われる申眞諝(シンジンソ)にも繋がっていく。
李昌鎬さんと世界一の座を争ったのが韓国主催の東洋証券杯世界選手権戦で93年。李さんは17歳だったはずだ。この時はまだボクの方が強かったと思うが、結果は5番勝負で3連敗。よくわからないうちに負けてしまった。技術的に持ち時間が日本では1日制は5時間あったが、世界戦は3時間が主流だ。いまや2時間とか1時間の棋戦もある。プレーヤーの立場で言えば、ほとんど別のゲームだ。
趙治勲 名誉名人・二十五世本因坊 | |
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ワールド碁フェスティバルの公開対局で解説者を務める趙治勲(2019年6月) | |
名前 | 趙治勲 |
生年月日 | 1956年6月20日(68歳) |
プロ入り年 | 1968年(11歳9ヵ月) |
出身地 | 韓国釜山市 |
所属 | 日本棋院東京本院 |
師匠 | 木谷實 |
名誉称号 | 名誉名人・二十五世本因坊 |
概要 | |
タイトル獲得合計 | 76(歴代1位) |
七大タイトル合計 | 42(歴代2位) |
七大タイトル | |
棋聖 | 8期 (1983-85,94,96-99) |
名人 | 9期 (1980-84,96-99) |
本因坊 | 12期 (1981-82,89-98) |
王座 | 3期 (1976,94,2001) |
天元 | 2期 (1987-88) |
碁聖 | 2期 (1979,86) |
十段 | 6期 (1982,88-89,2005-07) |
世界タイトル | |
富士通杯 | 優勝 (1991) |
三星火災杯 | 優勝 (2003) |
趙治勲 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 조치훈 |
漢字: | 趙治勳 |
発音: | チョ・チフン |
日本語読み: | ちょう ちくん |
ローマ字: | Jo Chihun |
趙 治勲(ちょう・ちくん、チョ・チフン、1956年6月20日 - )は、日本棋院所属の囲碁棋士。名誉名人・二十五世本因坊[注釈 1]。韓国釜山広域市出身。血液型はB型。木谷實九段門下。号は本因坊治勲(ほんいんぼう ちくん)。
タイトル獲得数歴代1位。史上初の大三冠、グランドスラム、名人5連覇、本因坊10連覇、通算1600勝など数々の記録を樹立。大一番での勝負強さから「七番勝負の鬼」の異名も取った[1]。
棋道賞最優秀棋士賞9回、秀哉賞9回。6年連続賞金ランキング1位。
叔父に囲碁棋士の趙南哲、兄も囲碁棋士の趙祥衍。本貫は豊壌趙氏[2]。
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