掲載時肩書 | トヨタ名誉会長 |
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掲載期間 | 2014/04/01〜2014/04/30 |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1925/02/27 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 89 歳 |
最終学歴 | 名古屋大学 |
学歴その他 | 一高 東北大学工学部 |
入社 | トヨタ |
配偶者 | 三井高長当主3女 |
主な仕事 | 父・喜一郎、英二(父従兄弟)、元町工場、製販合併、ソアラ(白洲)、レクサス、豊田中央研究所(発明クラブ)、経団連会長、愛知万博、 |
恩師・恩人 | 石田退三 、豊田英二 |
人脈 | 盛田昭夫、神谷正太郎、加藤誠之、平岩外四、山本重信、橋本凝胤、 |
備考 | 母:高島屋娘 |
日経の記者から何度も執筆要請をされながら断り続けていた財界大物がついに登場した。トヨタ関係者の登場は、石田退三、神谷正太郎、加藤誠之、豊田英二、に続いて章一郎氏は5人目であり、同じく5人の登場は野村證券(奥村綱雄、瀬川美能留、北裏喜一郎、田淵節也、寺澤芳男)の2社だけである。
豊田佐吉の長男(父親)の喜一郎氏、その次男・達郎氏、佐吉・次男の長男・英二氏も東大であり、喜一郎長男の章一郎氏も旧制第一高等学校に入学し、戦争のため名古屋大学、東北大学大学院で学んだと書いてあるから秀才一族である。トヨタのものづくり理念やその取り組みは、前回の英二氏が「履歴書」に書いてあるので感動は薄かったが、経団連会長、愛知万博会長としての財界活動は器の大きさを感じさせてくれた。
1.今まで執筆を断ってきた理由
これは、尊敬する元経団連会長の平岩外四氏が書かなかったためであり、そして昨年9月に100歳で亡くなった従兄弟の豊田英二氏もこの「履歴書」に半分まで脱稿していたがボツになったトヨタ歴史をいま自分が書いておかないと、次のトヨタ人が書きにくいと思ったからだと。
この理由を私(吉田)には納得できます。優れた経営者がその企業や事業の足跡を書かないと後輩は書きにくい。その代表例が日本興業銀行の中山素平氏であった。中山氏が執筆しなかったため、同銀行からは誰も「履歴書」を書く事ができなかったからである。
2.創業の精神を引き継ぐ
今日のトヨタ自動車とトヨタグループは、私の祖父・豊田佐吉の織機の発明に始まる。佐吉は貧しかった日本を豊かにしようと、織機の発明に一生をささげた。幾多の失敗にもめげず、レンガを一つひとつ積み上げていくような努力を重ねた。そして、息子の豊田喜一郎や部下たちは力を合わせて、大正末期にG型自動織機を完成させた。
この織機の特許を当時世界一と言われた英国の繊維機械メーカー、プラットブラザーズ社に10万ポンドで譲渡した。英国のサイエンス・ミュージアムに、ワットの蒸気機関など世界の産業史を担った数々の機械と共に10数年前からG型自動織機が恒久展示されている。私が訪問した時、ガチャガチャと動く音を聞いてたくさんの人が集まって来ていた。社会のお役に立ち世界で認められた織機を眺めながら、祖父や父の志や心が改めて偲ばれ、感慨ひとしおのものがあった。
3.工販合併
1981年6月に自動車工業の副社長から、山本定蔵社長の後任として自動車販売の社長に就任した。自販育ての親で「販売の神様」と言われた神谷正太郎さんは半年前に他界し、自販の社内や販売店からは、工販分離のままで本当に良いのかという声も多く聞かれた。
意思決定の迅速化、人材の有効活用、資金など経営資源の効率的な投入ができる体制づくりが肝要となる。工販両トップは、その最善方策が両社の合併であるとの共通認識に立ち、82年7月1日に合併が実現し、新生のトヨタ自動車がスタートした。その日に開かれた最初の取締役会で、私は新生トヨタの初代社長に選ばれ、豊田英二会長とともに会社のかじ取りを託された。
4.米の車産業発展に貢献(良き企業市民に)
1986年、米国とカナダに現地法人トヨタ・モーター・マニュファクチュアリング(TMM、現ケンタッキー工場)とトヨタ・モーター・マニュファクチュアリング・カナダ(TMMC)を設立し、両社の初代社長には当初からプロジェクトを主導した副社長の楠兼敬さんが就いた。
88年、TMMで「カムリ」、TMMCで「カローラ」の生産を開始し、生産台数も順調に伸びたが、事業に加え、我々が目指したのは現地の経済や社会の発展に貢献し、良き企業市民としての役割をしっかり果たすことだった。
92年には「トヨタ生産方式」を推進する生産調査室が中心となって、ケンタッキーに部品会社を支援するトヨタ・サプライヤ―・サポートセンター(TSSC)を設立した。私の息子・豊田章男(現社長)もしばらくここで働いた。トヨタの社員は地域社会に早く溶け込みたいと日本人でかたまらず、隣に現地の人が住む家を選ぶようにした。TMMの2代目社長、張富士夫さん(現トヨタ名誉会長)は、自宅にカラオケルームを設けて社内外の多くの米国人を招き、友情を育んだ。ケンタッキーは米国音楽の父、フォスターのゆかりの地。「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」を張さんが英語で歌い、皆が声を合わせて盛り上がった。
5.教育に力を入れる
祖父・豊田佐吉のように、コツコツと自分の腕と知恵で発明考案の出来る人材を育てるのが、氏の夢だった。そのため、豊田工業大学、ものづくり大学、中高一貫の海陽学園などを設立し、支援した。
氏は‘23年2月14日に97歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’14年4月の89歳のときでした。昨日夜、私のホームページのアクセス数を見ると豊田氏のアクセスが200近くもあり、ヒョッとすると、と思っていた矢先でした。
1.白洲次郎さんの思い出
戦後、吉田茂首相のブレーンとして活躍したケンブリッジ大出身の「英国紳士」、白洲次郎さんも忘れられない。学生時代、ベントレーやブガッティでレースに熱中し、根っからの「オイリー・ボーイ」(英国流クルマ愛好家)だった白洲さんは日本ではポルシェを愛用されていた。
「トヨタのパブリカトラックは役に立つよ」。白洲さんに初めてお会いした時の最初の言葉だ。当時軽井沢で農作業に使っておられた。車談議に花が咲き、初代「ソアラ」に乗って頂くことになった。率直な感想を聞き、愛用のポルシェを研究用にとトヨタに寄贈してくださった。
私が開発主査の岡田稔弘君を東京・赤坂の白洲さんのお宅を何度もうかがわせて意見を聞き、完成したのが2代目「ソアラ」だ。しかし、白洲さんはその数か月前に他界され、ハンドルを握っていただくことはかなわなかった。白洲さんの妻正子さんの案内で、2代目「ソアラ」を運転して私の長男・章男(現社長)と共に兵庫県三田市に行き白洲さんの墓前でお礼を述べた。
2.愛・地球博の開催
2005年に「愛・地球博」の愛称で開かれた愛知万博で、私は開催事務局である日本国際博覧会協会の会長を務めた。2005年3月24日、天皇皇后両陛下、皇太子殿下のご臨席を賜り、小泉純一郎首相をはじめ内外のお客様を招いて開会式を挙行した。当初こそ入場者数が伸び悩んだが、天候にも恵まれて1日も休まず開場、9月の閉幕までに来場者は2205万人と目標の1500万人を上回ることができた。
愛・地球博のテーマは「自然の叡智」。会場にあった森、丘、池など起伏のある自然環境をできる限り残すため、1周2・6kmの空中回廊「グローバル・ループ」で歩行者用の平らな道を確保してパビリオンを巡ることができるようにした。気候変動で絶滅したマンモス、ロボットなどの最先端技術を展示し、リニアモーターカーや無人隊列バスなどの新交通システムも活用した。
3R(リユース・リデュース・リサイクル)を会場作り、展示、運営で徹底して進め、初めて本格的な市民参加を取り入れたのも特徴だ。日本の知恵や技術の粋を集め、人類と自然が共生した夢のある未来のライフスタイルを提案し、21世紀の新しい万博の方向を示すことができたのではないかと思っている。
*また、今朝の日経新聞には「私の履歴書」担当記者だったと思われる西條都夫氏の追悼文が掲載されていた。
「14日に死去したトヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎氏はトヨタグループの総帥、経団連会長など経歴は華やかだが、朴とつな人柄で派手な振る舞いは嫌った。しかし自分の役割をわきまえて、それを手堅くこなす賢さがあった。
1990年代半ばの日米通商摩擦では難しい政策的判断を迫られた。当時、米国の対日貿易赤字の半分は自動車によるもの。最右翼のトヨタに米国の圧力がかかった。実弟の豊田達郎社長が病気療養中だったため、トヨタのトップとしてモンデール駐日米国大使とも連携を取りながら米国製部品の調達増などを盛り込んだ自主計画を決断。難航した日米自動車交渉をぎりぎりのところで収めた。こうして摩擦回避に全力をあげるとともに、米国での現地生産を強力に推し進めた。トヨタが後に世界一の自動車メーカーに駆け上がる布石は、章一郎時代に打たれたといっていい。
名誉会長となってからも、社内では若手・中堅社員にねぎらいの声をかけ、開発や生産の現場の視察を続けた。カーガイ(車好き)ぶりは有名で、晩年までテストコースに出かけては、新車のハンドルを握った。「試乗会でいつも最後まで乗っているのが名誉会長。私たちが先に帰るわけにもいかず、長い時間待たされた」と同行したトヨタの若手役員は振り返る。
トヨタの社長時代にドイツ車を追い越す車をつくろうと、高級ブランド『レクサス』を立ち上げたのも、車にかける熱い思いゆえだ。
トヨタの豊田章男社長は長男。会社では互いに「名誉会長」「社長」と呼び、一線を画したが、プライベートな場面では親愛の情をもらすこともあった。
「かつて英二さんは公害問題で日本の国会に呼び出された。現社長はリコール問題で米連邦議会の公聴会に呼ばれ、証言台に立った」と振り返り、「2人ともそれを立派にこなして、難局を乗り切った。私は国会に呼ばれたことがないので、経営者としてまだまだです」と冗談めかして語ったことがある。章男社長が経営者として独り立ちしたことが、うれしくてたまらない。そんな父親としての表情だった。 (編集委員 西條都夫)
とよだ しょういちろう 豊田 章一郎 | |
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2007年4月撮影 | |
生誕 | 1925年2月27日 愛知県名古屋市 |
死没 | 2023年2月14日(97歳没) |
死因 | 心不全 |
国籍 | 日本 |
教育 | 工学博士 |
出身校 | 第一高等学校理科甲類卒業 名古屋大学工学部機械工学科卒業 東北大学大学院工学研究科修了 |
職業 | トヨタ自動車名誉会長 |
純資産 | 約564億円(2010年) |
配偶者 | 豊田博子 |
子供 | 豊田章男(長男)、藤本厚子(長女) |
親 | 豊田喜一郎(父) |
親戚 | 豊田佐吉(祖父) 飯田新七(祖父) 三井高寛(義祖父) 三井高棟(義祖父) 三井高公(義伯父) 豊田利三郎(義叔父) 豊田英二(従叔父) 豊田達郎(弟) 豊田達也(甥) 斉藤滋与史(義弟) 豊田周平(再従弟) 藤本進(娘婿) 鮎川弥一(再従兄) |
栄誉 | 従二位 桐花大綬章 大英帝国勲章 レジオンドヌール勲章 ドイツ連邦共和国功労勲章 他多数 |
豊田 章一郞(とよだ しょういちろう、1925年〈大正14年〉2月27日 - 2023年〈令和5年〉2月14日)は、日本の実業家、技術者。位階は従二位、勲等は桐花大綬章。学位は、工学博士(名古屋大学・1955年)。トヨタ自動車株式会社名誉会長、日本経済団体連合会名誉会長。
旧トヨタ自動車販売代表取締役社長(第4代)、トヨタ自動車株式会社代表取締役社長(初代、工販分離前から数えると第6代[1])、旧経済団体連合会会長(第8代)を歴任した。その他、学校法人トヨタ名古屋整備学園理事長(初代)、学校法人トヨタ神戸整備学園理事長(初代)、東和不動産取締役会長、デンソー取締役、学校法人海陽学園理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事などを歴任した。