掲載時肩書 | JR東海名誉会長 |
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掲載期間 | 2015/10/01〜2015/10/31 |
出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | 1940/10/20 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 都立西 |
入社 | 国鉄 |
配偶者 | 上司妹(兄の妻は井手正敬・妹) |
主な仕事 | 米留学、静岡、仙台、国鉄再建計画、分割民営化、JR東海、のぞみ、名古屋再開発、リニア着手、海陽学園 |
恩師・恩人 | 岡義武、郡司宏 |
人脈 | 民営化(井手正敬、松田昌士)、支援(瀬島龍三・中曽根康弘・加藤寛、三塚博、亀井正夫・橋本龍太郎)、山田佳臣、南谷昌二郎、豊田章一郎 |
備考 | 分割民営化トリオの一人 |
1940年10月20日- 2022年5月25日)は兵庫県生まれ。日本の実業家、会社経営者。東海旅客鉄道(JR東海)社長・会長、学校法人海陽学園理事長などを歴任。兵庫県出身の東京都育ち。井手正敬、松田昌士と共に「国鉄改革3人組」と称され、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化に尽力した。国鉄関係で「履歴書」登場するのは、島秀雄、磯崎叡、高木文雄、松田昌士、葛西氏の5人である。しかし、髙木文雄はプロパー(大蔵省出身)ではない。「国鉄分割民営化」の三羽烏であった松田昌士(JR東日本)、井手正敬(JR西日本)と葛西のうち、松田も2008年11月に登場し、国鉄改革を詳細に述べていた。
1.国鉄改革派への嫌がらせ
この「履歴書」で注目すべき個所は、改革には国鉄内の強力な抵抗・嫌がらせにどのように対処していったかであった。具体的には、途中、松田は北海道に、井手は東京西鉄道に左遷される妨害があったが、第二次臨時行政調査会(第二臨調)で、瀬島龍三、加藤寛、亀井正夫の民間委員のバックアップに、三塚博、中曽根康弘、橋本龍太郎などの政治家の支援、運輸省の林淳司(事務次官)など受け皿体制を巻き込んで周到な計画と地道な説得による成果であった。国鉄の旧体制派は、秘書(人事)・文書(組織)・主計(予算)の主要3ポストを押さえておれば、民営化は空文となると思っていた。それを葛西ら三羽烏が中心となりタスクホース方式でこれらの課題を克服すべき計画に練り上げたのだった。
2.再出発
31万人の従業員を約10万人削減し21.5万人に縮小して再出発となったJR各社だったが、その再出発日を松田は次のように書いている。 「やがて国鉄最後の日が終わり、日付が変わった午前零時。丸の内の本社からも汐留から鳴り響く汽笛が聞こえてきた。全国の鉄道管理局から報告があがり、十数項目の移行準備手続きが完了したことを確認すると、ようやく安堵の息を吐いた。このころになってようやく50人程度の職員と共に経営計画室の部屋でささやかな夕餉を開いた。時計の針が午前三時を指しても部屋のそこかしこでは歓喜、感涙の声が絶えなかった。だが、我々に残された時間は多くはない。あと一時間もすれば新生・JR東日本が送り出す、緑色のコーポレートカラーに染められた始発列車が静かに「その時」を待っていた」。
3.分割後の懸念
7社に分割しても営業の収益構造はそれぞれ違っている。JR東日本の新幹線収入は上越と東北だけだから約30%、他は都市鉄道網と在来線。JR東海のそれは90%を占め、JR西日本では同じく約45%だという。新幹線の収益は高いのでJR東海はリニア新幹線の投資を行うことができる。この技術で米国やベトナムなど諸外国に輸出できる産業にもなっているが、JR北海道やJR四国の健全経営は道のりが遠く感じる。
氏は2022年5月25日、81歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は2015年10月で75歳のときでした。新聞各社の追悼文や評伝を読むと、必ず「剛腕の人」と紹介されている。しかし、葛西氏の「履歴書」初日の冒頭では、次のように書かれている。
1.私の性格
「剛腕」などと評されることが多いが、それは違う。本来私は慎重で、むしろ臆病な性質である。幼い頃、母が近所に絵や書道を習いに通わせたのも、内気で恥ずかしがりの性格を心配してのことだった。学生時代までは親や友人、教師など、周りの期待に応えるように振舞ってきた。真面目で成績が良く、ルールをきちんと守る。そうすれば皆が安心し、褒めてくれる。都会で甘やかされて育った秀才、だったのだと思う。
2.私の判断基準
しかし国鉄に入社してすぐに、職場の規律は崩壊していると感じた。静岡、仙台の鉄道管理局勤務となった私は、悪慣行がはびこる現場の実態に直面する。そのような厳しい状況の中で、身を削るようにして鉄道の使命を果たそうとする現場管理者たちに出会った。
彼らを守り、国鉄を生き返らせるにはどうすればいいのか。「正しいのか否か」だけを判断基準として妥協せず、筋を通すしかない。私は変わった。労組となれ合う本社の方針に逆らうことで否応なしに自立したのだ。やがて「国鉄の再生には分割民営化しかない」という確信を胸に抱いたのだった。
民営化後はJR東海に移り、日本の鉄道の精華である東海道新幹線のシステムを磨き上げてきた。そして今、超電導リニアによる中央新幹線の開通を見据えている、と。
81歳での旅立ちは、リニア新幹線の開業に間に合わなかったのが心残りだったと思われる。
かさい よしゆき 葛西 敬之 | |
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2022年4月6日 | |
生誕 | 1940年10月20日 日本・兵庫県明石市 |
死没 | 2022年5月25日(81歳没)[1] |
死因 | 間質性肺炎 |
住居 | 日本・東京都杉並区 |
出身校 | 東京大学法学部(法学士) ウィスコンシン大学マディソン校(経済学修士) |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 1963年 - 2022年 |
団体 | 東海旅客鉄道 |
肩書き | 東海旅客鉄道株式会社名誉会長 |
葛西 敬之(かさい よしゆき、1940年10月20日[2] - 2022年5月25日[3])は、日本の実業家。東海旅客鉄道(JR東海)代表取締役社長・代表取締役会長・代表取締役名誉会長、取締役名誉会長を歴任した。他に、学校法人海陽学園理事長[4]を務めた。
兵庫県明石市出身の東京都育ち[5]。井手正敬、松田昌士と共に「国鉄改革3人組」と称され、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化に尽力した。