加藤寛 かとう かん

学術

掲載時肩書千葉商大学長
掲載期間2005/05/01〜2005/05/31
出身地岩手県
生年月日1926/04/03
掲載回数30 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶應予科
入社助手
配偶者記載なし
主な仕事中学・高校教師、米国留学、ソ連実態経済研究、民社研、生産性本部、国鉄民営化、政府税調会(消費税導入)
恩師・恩人気賀健三教授、英国A・C ・ピグー
人脈矢内原勝(父忠雄)、野田一夫、香山健一、土光敏夫、瀬島龍三、牛尾治朗、住田正二、竹中平蔵、堺屋太一、大来佐武郎、小泉純一郎(教え子
備考首相(福田、三木、中曽根、細川)ブレーン
論評

1926年(大正15年)4月3日 – 2013年(平成25年)1月30日)は岩手県生まれ。経済学者。慶應義塾大学名誉教授。政府税制調査会会長、内閣府規制改革担当顧問、慶應義塾大学教授を務める傍ら、鈴木善幸、中曾根康弘両政権時代には第2次臨時行政調査会に加わり、土光敏夫会長の下で第四部会長としての国鉄分割民営化や、政府税制調査会会長として直間比率是正・間接税中心の税体系の導入(ミスター税調の異名を取った)等の日本の行財政改革を牽引した。また、小泉・竹中の郵政民営化や構造改革のブレーンとしても貢献している。郵政民営化を一貫して主張していた。

1.政治家の心得3か条
ふたりの首相から選挙に出ないかと誘われたが、その一人の福田赳夫首相は、こうおっしゃった。「政治家の心得3か条。第一、朝早く起きよ。第二、夜遅くまで付き合え。第三、金をもらってもありがとうといわず預かっておくと言え」。金輪際、私にはできない。

2.椎名裁定の夜、三木武夫さんと一緒に
1974年11月30日の土曜日の夜だったはずだ。その頃よくお邪魔した、東京・南平台の三木武夫さんの自宅で、例によって政策談義をしていた。8時ごろだろう。三木さんが「お電話です」と秘書に呼ばれる。応接室の横の電話室から出てきた三木さんは足をヨロつかせた。さっきまで普通だった顔が真っ赤だ。
 金脈問題を追及されて退陣を表明した田中角栄首相の後継として、どんな手続きで誰が自民党総裁を選ぶか。椎名悦三郎副総裁が党内の調整を任されていた。福田赳夫、大平正芳中曽根康弘ら総理・総裁の座を狙う派閥の領袖たちを睨んで大詰めを迎えていた。
 決定的なことが電話で伝えられた、と思った私は三木さんに遠慮して、挨拶もそこそこに帰宅した。そこへ秘書の方から電話が入った。「さっきの電話は”総裁に指名する。そのつもりでいてくれ“という連絡だった。三木さんは今、マスコミに発表する文章を考えている。手が震えて字が書けないので手伝ってくれないか」。とんぼ返りした私にも文案は思い浮かばず、1時間くらいで失礼した。椎名裁定の後、三木さんは「青天の霹靂で、予想だにしなかった」と有名なセリフを吐く。あれも一晩考えた言葉なのかもしれない。

3.消費税導入の舞台裏(政治家の矜持)
1988年の竹下登内閣時代、消費税導入を決めた時の自民党税調会長・山中貞則さんはこの「私の履歴書」に8年前、こう書いている。「最後まで大きな争点に残った税率は『山中裁定』で決着させた。党税調総会当日、私が『税率3%』と裁定を下すと『ウォ―』とどよめきが起きた。私はその日まで一切腹を明かさなかった」と。
 実は裁定の前日か前々日、私は山中さんに会い、5%でなく3%に、と強く推し同意を得ている。自分一人で税率を判断したと記されたのは、政策決定に責任を負うという矜持なのだろう。

加藤 寛

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