萩本欽一 はぎもと きんいち

映画演劇

掲載時肩書コメディアン
掲載期間2014/12/01〜2014/12/31
出身地東京都
生年月日1941/05/07
掲載回数30 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他
入社東洋劇場
配偶者姉さん 踊り子
主な仕事踊り子の用心棒、フランス座、劇団旗揚 げ、コント55号、テレビ、パジャマ党、
恩師・恩人東八郎,常田久仁子
人脈大宮デン助、坂上二郎(7上)、北島三郎 、井原高忠、真屋順子、
備考
論評

芸能人でも初めてのコメディアンの登場である。語り口は非常に謙虚であった。初日のコラムには次のように書いてあった。

振り返ると、僕は「ダメな子」だった。「できる子」と同じ土俵で競争しても勝ち目はない。だから僕の信条は「2歩下がって」。下がった場所で自分なりに人のやらない努力をして、必死でがんばる。ずぅ~と現役で仕事ができているのも、2歩下がったからじゃないかな。そうは言っても、僕はあんまり謙虚な人間ではない。そんな僕を叱りつけ、励まし、たしなめてくれた人達が大勢いる。この連載を引き受けて改めて気がついたけれど、世の中、恩人だらけだ。

浅草のストリップ劇場(東洋劇場・フランス座)で前座コメディアンの下積み生活を長く過ごし、佐山俊二、長門勇、渥美清、谷幹一、関敬六らの先輩から多くを学んだ。地方巡業では踊り子の用心棒となり、地元の親分や怖いお兄さんからの誘惑を防ぐのがコメディアンの役目でもあった。劇場や興行主にすれば、彼女たちが稼ぎ頭の財産だからだ。コメディアンには踊り子さんは雲の上の人だった。その3歳上のお姉さん踊り子さんに優しく面倒を見てもらった。「あなたは若いきれいな子と結婚しなさい」と言い残し、姿を消したこの恩人のお姉さんを探し出し、結婚をすることとなる。

最初は相性の悪かった坂上二郎との出会いとコント55号の結成、引き立ててくれた師匠の東八郎、北島三郎の温情、フジテレビの常田久仁子ディレクターの抜擢、真屋順子とのテレビ夫婦役など、お世話になった恩人へのお礼を紙上で丁寧に述べていた。清々しい語りであった。

苦労雨が美しい虹に
劣等感 一歩下がって努力
コント55号 > 萩本欽一
萩本はぎもと欽一きんいち
本名 萩本 欽一
ニックネーム 欽ちゃん、大将
別名義 秋房子
生年月日 (1941-05-07) 1941年5月7日(83歳)
出身地 日本の旗 日本 東京府東京市下谷区(当時)(生育地は埼玉県浦和市(当時))
血液型 A型
身長 164 cm
言語 日本語
方言 東京弁首都圏方言
最終学歴 駒澤大学仏教学部中退
師匠
出身 浅草東洋劇場
コンビ名 コント55号
相方 坂上二郎
芸風 コント
事務所
活動時期 1960年 -
過去の代表番組
他の活動
配偶者
  • - 2020年 (死別)
弟子
公式サイト プロフィール
受賞歴
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萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年昭和16年〉5月7日 - )は、日本のコメディアン、テレビ司会者。

1966年、相方の坂上二郎と結成した「コント55号」が絶大な人気を得て、60年代後半のテレビを席巻する。

70年以降は司会者としての単独活動も開始。特に80年代以降は彼の名前を冠したレギュラー番組が軒並み高視聴率を記録、「視聴率100%男」との異名を取った。また、これらの番組から始まった様々なお笑いのスタイルは(後述)その後のバラエティー番組へ多大なる影響を与えた。

昭和のバラエティー番組黄金期を代表する人物である。

日本野球連盟に所属する野球クラブチーム茨城ゴールデンゴールズ」創立者で、初代監督を務めた。司会者などタレント業のほか、舞台などの演出家としても活動する。

浅井企画所属。浅井企画グループの佐藤企画と業務提携し、同じく浅井企画傘下に置く個人事務所・萩本企画にも所属している。

東京府東京市下谷区稲荷町(現:東京都台東区東上野3丁目)出身の埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和地区)育ち。血液型はA型。

欽ちゃん大将愛称で広く知られる。

  1. ^ NHK9/20「たけし~オイラの師匠と浅草~」でビートたけし 生涯唯一の師匠・深見千三郎を語る!予告動画”. 2021年2月9日閲覧。
  2. ^ 萩本欽一(12) お姉さんの餞別 地方巡業で度胸付ける ネックレス寝る前握りしめ”. 2021年2月9日閲覧。
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