萩原吉太郎 はぎわら きちたろう

石油・石炭

掲載時肩書北海道炭礦汽船社長
掲載期間1960/06/23〜1960/07/21
出身地埼玉県蕨
生年月日1902/12/15
掲載回数29 回
執筆時年齢58 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他京華商業
入社三井合名
配偶者記載なし
主な仕事北炭・北海道炭鉱汽船、欧米視察、夕張爆発、石炭化学研究所、仏教青年会館
恩師・恩人高橋誠一郎、島田勝之助
人脈新関八州太郎、宇佐美洵、児玉誉士夫、武見太郎(学友)、亀山直人
備考小泉信三以来の秀才(林毅陸塾長の推薦文に)
論評

1902年12月15日 – 2001年8月8日)は埼玉県生まれ。実業家。1958年、北炭の不動産管理会社として北海道不動産(グランビスタ ホテル&リゾートの前身)を設立、北炭が従来持っていた不動産などを利用して炭鉱が斜陽化した時期に観光産業に参入し、札幌テレビ放送(STV)を設立することで放送事業にも参入。また、昭和の大横綱である大鵬幸喜の後援会会長に就任し、彼の結婚式の媒酌人も務めた。「政商」と呼ばれ、児玉誉士夫、永田雅一と古くから親交を結んでいたほか、三木武吉、大野伴睦、河野一郎ら党人派政治家と交流を持ち、事業においても政治力を駆使してきたが、エネルギー革命の波に敗れた。

1.米軍捕虜への配慮
昭和15年(1940)2月15日、私は三井合名を去り秘書部長として、島田勝之助社長と北炭に移った。大戦末期には私は島田会長とともに北海道に駐在していた。そのころグアム島だったかウェーキ島だったかで捕虜になった米兵が北炭の空知に送られてきたが、これらの捕虜をあまり優遇するというので、憲兵隊が調べに来たことがある。事実、北炭では米兵たちを殆ど坑内に入れなかった。そればかりか島田さんは、外人が肉を食わなかったら体がもたないといって、会社の牧場で飼っていた牛を次々とつぶし、ついに最後の一頭まで米兵の食卓に献じてしまった。日本人ですら肉に飢えていたころのことだから、この島田さんの美挙は大したものだと思う。
 戦争が終わったら米軍機が飛んで来て、捕虜たちのためにいろいろな物資を投下していく。米兵たちはいよいよ本国に引き揚げとなったら、それらの物資を事務所に放り込み「貴社がいかに我々を優遇してくれたか、もちろん本国に帰って報告するが、この物資をここに残し、全捕虜の名において感謝の意を表する」と書いた文面に、代表者の中佐がサインして行った。別れ際彼らは「ありがとう、ありがとう」を繰り返した。

2.追放令違反でGHQから厳重取り調べ
昭和22年(1947)4月、常務になった途端、だしぬけに追放令違反に問われ4日間にわたってGHQに厳重な取り調べを受けた。違反容疑の第一は追放になった島田さんに運転手を付けて自動車を提供していたこと、第二は、荻外荘の傍に住む島田さんに家賃として月5万円を渡していたこと、その他の9か条であった。自動車の提供もさることながら、当時の5万円は大きい。追放になったものは会社の敷居を跨いでも違反だといわれる頃に、これだけのことをしていては、とても言い逃れなどできっこない。そこで私は、係官に「悪いことは全部自分が被るから処分してくれ。ただその前に私の気持ちだけ聞いてほしい」と言った。
―島田さんは事実重要な残務もあり、それで会社に来てもらっているが、そのときに、あなたはパージだから電車でやって来いとは、人情として私には言えない。あれだけ功労のあるご老体に殺人的な電車に乗って来いとは、私として言えるものではない。それで私は初めから、お咎めを覚悟でやったーと言ったら、国は違っても人情は分かるらしく、顔を和らげて「あぁそうか、それでは看護婦の役をやっていたのだな」と冗談を飛ばした。その後もいろいろあったが小細工しないで話すと心証をよくしたらしく、無罪放免となった。

3.燃料革命に先手を打つ
昭和27年(1952)7月8日私は社長に就任した。この頃の石炭界は上向きにあったが、私は逆に警戒した。私は今日のいわゆる「燃料革命」を予言したのである。現況に酔ってはいけない。世界の情勢から遠からず石炭は斜陽産業になる。どんどん重油に食われるだろう。これはもう単なる景気の問題ではなくて、燃料革命だ。いま適切な手を打っておかねば命取りになるーと私は考えた。
 そこでまず向う10年間、安定した形で売れるようにして、その間に対策を推進しようと計画し、東京瓦斯や富士製鉄と長期契約を結んだ。さて、10年間は長期契約でやっていけるとしても、将来はどうしたらよいか。これはどうしても「石炭化学」に進む以外に道はないと考えた。燃料として使うばかりでなく、化学原料として新しい道を開くため、武見太郎君(日本医師会長)に打ち明けて相談した。

はぎわら きちたろう

萩原 吉太郎
生誕 (1902-12-15) 1902年12月15日
埼玉県蕨町
死没 (2001-08-08) 2001年8月8日(98歳没)
東京都
死因 慢性呼吸不全
国籍 日本の旗 日本
出身校 慶應義塾大学経済学部
職業 実業家
栄誉 藍綬褒章
勲一等瑞宝章受章(1973年)
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萩原 吉太郎(はぎわら きちたろう、1902年(明治35年)12月15日 - 2001年(平成13年)8月8日)は、日本実業家北海道炭砿汽船(北炭)、札幌テレビ放送(STV)社長などを務めた。

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