掲載時肩書 | ファション・デザイナー |
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掲載期間 | 2009/08/01〜2009/08/31 |
出身地 | 韓国 |
生年月日 | 1930/08/21 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 東京高校 |
入社 | 中原淳一 内弟子 |
配偶者 | 冨田友子(デザイナー) |
主な仕事 | アパレルメーカー23歳専属、高島屋専属、欧州視察、皇室デザイナー36歳、パリコレ・直営店 |
恩師・恩人 | 中原淳一、仲原利男(高島) |
人脈 | 葦原邦子(恩師妻)、平田暁夫、山中鏆(伊勢丹)、正田富美子、弟子:ラクロア、マンスフィールド駐日大使、浅丘ルリ子、石坂浩二、山東昭子 |
備考 | 皇室デザイナー |
1930年8月21日 – 2018年10月20日は韓国生まれ。ファッションデザイナー。株式会社ジュンアシダ創業者。上皇后美智子の皇太子妃時代における専任デザイナーを務めたことで知られている。アトランタオリンピック日本選手団の公式ユニフォームや、全日空など有名企業の制服も多数手がけた。師匠はイラストレーターの中原淳一。1993年、皇太子徳仁親王妃雅子の御成婚衣装を拝命。1993年、代官山フォーラムに「ブティック・アシダ本店」オープン。1994年、広島アジア大会、日本選手団の公式ユニフォームをデザイン。1994年、社団法人科学技術国際交流センターに芦田基金を設立。1996年、アトランタオリンピック、日本選手団の公式ユニフォームをデザイン。2001年、会社の生産管理・縫製部門を分社し、株式会社ジュンアシダ生産本部を設立。
1.ニューヨークファッションに憧れ
昭和17年〈1942〉、21歳上の長兄一家が憧れのアメリカの生活を持ち帰って来た。私は毎朝、ワッフルやバターが焼ける甘い香りで目を覚ました。最も衝撃を受けたのはニューヨーク仕込みのファッションだった。ハイヒールやミンクのコートを身にまとった兄嫁は、さながら映画から飛び出した外国人女優のようだった。外出時、ネットが付いた帽子をかぶり、パッドが入ったスーツを小粋に着こなして銀座の街角を歩くと、通行人が驚いて振り返るほどだった。
「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」などのファッション雑誌に掲載された女性モデルや婦人服、料理、インテリアにも目を奪われた。現代とそれほど変わらない生活がそこにはあった。小学生だった私はまるで宝箱でも開けるように、何度も飽きずにグラビアページをめくり続けた。兄夫婦の二人の娘にせがまれて、画用紙に裸の人形とそれに合わせるワンピースやスカート、スーツなどの衣装を描いて見せた。
見よう見まねだが、兄嫁や姪が身にまとう洋服や雑誌があるので手本には困らなかった。むしろ手を動かすと次々にアイデアが湧きあがり、楽しくて仕方がない。私はこの頃から無意識のうちに、今のファッションデザイナーの仕事とさほど変わらない作業を始めていたことになる。
2.憧れの中原淳一先生に弟子入り直訴
中原淳一といえば女性向け雑誌「それいゆ」や「ひまわり」を創刊した売れっ子画家。憂を帯びた瞳が印象的な少女の挿絵や服飾、随筆は女性たちに「心の美しさ」を呼びかけ、多大な影響を与え続けた。ファッションデザイナーを目指す私にとっても、憧れの存在だった。
そこで描きためたデザイン画を携え、中原先生の自宅に押し掛けても、家人には全然取り合ってもらえない。そこで諦めきれない私は、ある日、新聞で先生が講演会をするという広告を目にし、直接交渉を決めた。やがて小奇麗なジャケットを着た先生が現れた。私は付き人の制止を振り切り、慌てて声を掛けた。「お願いします。私が描いたデザイン画を見てください」。最初、先生は驚いた表情を浮かべたが、私の必死の形相に気づき、それから差し出されたデザイン画に視線を落とした。
先生は30枚程度の私の作品をじっくり見てくれた。「これはあなたのアイデアですか。服もあなたのデザインですか」。穏やかな口調で質問されるたびに私はうなずいた。先生は私の目を見据えてこう言った。「あなたには才能があります。ただこの道は決して甘くはないですよ。それでも、やり遂げる覚悟があるなら指導してあげましょう。いつでもここに電話してください」。こう言って連絡先を書いたメモをくださった。
憧れのスターに才能を認められたという事実に心が弾んだ。よし、これで踏ん切りがついた。もう大学進学はやめよう。「ボクは中原淳一の弟子になります」。親族の前でこう宣言した。
3.子供服から独自色のデザイナーに
2か月の欧州視察は私に思わぬ副産物をもたらしていた。娘に着せようとせっせと買いあさってきた子供服である。段ボール3箱分もある商品に改めて目を凝らすと、驚かされることが実に多かった。最も感心したのはその服作りの哲学だった。例えば3歳児用の服には、腰の切り替えの部分に10cmほどの縫い代がたっぷりと織り込んである。これだと、子供の体が大きくなっても、縫い代を少しずつ出せば全体のバランスを損なわずに美しく着られる。日本にはない発想だった。上質なものを大切に長く着る。そこには大人から子供への愛情も込められている。目からウロコが落ちる思いだった。
「そんな思想を生かして、正統な子供服を高島屋でデザインできないものか」。私はこう考えるようになった。自分の娘に着せたいという親の愛情を生かせば素晴らしい商品ができるはずだ。この提案に高島屋も飛びついた。1965年(昭和40)、ブランド名を「少女服」とし、高島屋から売り出すことが決まった。
4.皇室デザイナーに
ある朝、高島屋に出社すると婦人服部長が血相を変えて駆け寄ってきた。「おい、芦田さん。大変なことになったよ。実は宮内庁から電話があって、浩宮さまの背広をつくってほしいと依頼されたんだ」とまくし立てる。「えっ、何だって」。私は思わず聞き返した。宮内庁の関係者が「少女服」を見て気に入り、推薦してくれたのだという。欧州土産から発展した「少女服」が、思わぬ幸運を運んで来てくれた。
身に余る光栄だった。でも美智子さまと面会なんて、一体、どんな服装をして、何を話せばいいのだろう。皆目、見当がつかなかった。東宮御所に入り、仮縫い室に案内された。10畳ほどの室内には大ぶりの鏡や応接セットが置かれ、静寂に包まれていた。
しばらくするとドアがゆっくりと開き、美智子さまが入ってこられた。「芦田でございます。このたびは浩宮さまのお洋服を仕立てることになりました。お目にかかれて光栄です」。私が深々と頭を下げると、美智子さまは優しい笑みを浮かべながらうなずかれた。「こちらこそ、よろしくお願いいたします。どんな洋服ができるか楽しみですね」。
浩宮さまに仕立てたお洋服はダブルのスーツだった。そのハンサムな浩宮さまの姿の凛々しかったこと!私はまず採寸し、仮縫いを1,2回して洋服を仕上げた。スーツの出来栄えに美智子さまも浩宮さまも大変満足されたようだった。
まだ赤ちゃんだった弟の礼宮さまのお洋服を仕立てたこともある。まさか仮縫いにはピンを使うわけにもいかず、セロハンテープで代用した。でも礼宮さまが元気に動き回るのでセロハンテープがどうしても外れてしまう。何度もやり直したので今でも懐かしく思い出す。
「芦田さん。今度、私が着るお洋服の仕立てもお願いしてよろしいかしら」。やがて、美智子さまからこんなご依頼をいただいたときは、まるで天にも舞い上がりそうなくらいに喜びを覚えた。人生で最高の瞬間だった。大学も満足に出ていない私が、皇太子妃の衣装をつくるなんて・・・父や母が生きていたらどんなに喜んだことだろう。今までの苦労が報われた気がした。「ありがたき幸せです。謹んでお受け致します」。私は目頭がジーンと熱くなるような感慨をかみしめた。
氏は’18年10月20日88歳で亡くなった。この「履歴書」に登場したのは、2009年8月の79歳のときでした。デザイナーで登場は、森英恵、ピエール・カルダン、芦田淳、高田賢三(以上ファッション)、横尾忠則(グラフィック)、栄久庵憲司(工業)の6人である。変化が激しいモード界で品格のある服を追い続けるのは難しい。だがその作風を貫き、正統派デザイナーとして不動の地位を築き上げた。
日本統治下の朝鮮半島で、裕福な開業医の父を持ち、8人きょうだいの末っ子で生まれた。ファッションに目覚めたのは引き上げ後、ニューヨーク帰りの兄一家と生活を共にした経験がきっかけだった。ハイヒールやミンクのコートをまとった義姉に衝撃を受け、米国のファッション誌を読み漁った。転機となったのが、少女画家でデザイナーの中原淳一氏との出会いだった。自宅では何度も追い返されたので、意を決して講演会に押しかけ描きためていたデザイン画を見せると、才能を見込まれて弟子入りを許された。このアトリエには乙羽信子、司葉子、岸恵子、高峰秀子、浅丘ルリ子ら人気女優も多く出入りしていたという。
高島屋の顧問デザイナーとして婦人服プレタポルテ(高級既製服)を日本に定着させ名声を得たが、その功績で欧州視察旅行を許された。パリの街にはシックに着飾ったマダムが行き交い、洗練された様々な洋服が店先を鮮やかに彩っているのにショックを受ける。そのとき日本に残してきた2歳の娘に「着せたいなぁ」と気に入った子供服を2か月間で段ボール3箱も買い、持ち帰った。この子供服は「機能的でセンスが良く上質なものを大切に長く着る」哲学があり、日本にはない発想なので目からウロコが落ちる気がした。この哲学を生かした子供服が浩宮さまの背広に採用され、その後皇室との繋がりを深めたのだった。そして89年にパリの高級ブティック街に直営店を開き、96年のアトランタ五輪には日本選手団公式服、全日空、帝国ホテルの制服も手掛けた実績を持つ。
芦田 淳(あしだ じゅん、1930年8月21日 - 2018年10月20日[1])は、日本のファッションデザイナー。株式会社ジュンアシダ創業者。
上皇后美智子の皇太子妃時代における専任デザイナーを務めたことで知られている[2]。アトランタオリンピック日本選手団の公式ユニフォームや、全日空など有名企業の制服も多数手かげた[3]。師匠はイラストレーターの中原淳一[4]。
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