横尾忠則 よこお ただのり

芸術

掲載時肩書画家
掲載期間1995/05/01〜1995/05/31
出身地兵庫県
生年月日1936/06/27
掲載回数30 回
執筆時年齢59 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他
入社印刷所
配偶者職場女性1歳上
主な仕事神・霊魂に興味、書道、油絵、神戸新聞 、映画出演、NY,インド、陶板、舞台美術
恩師・恩人田中一光
人脈山藤章二、宇野亜吉良、和田誠、三島由 紀夫、寺山修司、唐十郎、瀬戸内寂聴、深沢七郎、柴田錬三郎、池田満寿夫、谷内六郎、三宅一生
備考知<霊
論評

1936年6月27日 – )は兵庫県生まれ。美術家、グラフィックデザイナー、作家。幼少期に西脇でさまざまな超常現象を経験。死の世界に憧れを抱く。神戸新聞社にてグラフィックデザイナーとして活動後、独立。1980年7月にニューヨーク近代美術館にて開催されたピカソ展に衝撃を受け、その後、画家宣言。以来、美術家としてさまざまな作品制作に携わる。

1.作風の変化
24歳で父、29歳で母を失った、父が死ぬと同時に長男誕生、そして長女誕生と同時に母の死。まるで輪廻転生を見ているようだった。死んだ母の胴巻きから汗に濡れた春画が数枚出てきた。養母だった母のぼくへの秘密のメッセージのように思えた。のちに寺山修司は母とぼくを母子相姦と結び付けてエッセーを書いた。このころから僕の作品は死と性の色彩が次第に濃くなってきた。
 なぜか分からないが、このころから死にとりつかれ始めた。自分が首つりをしている作品や、交通事故死を演じた写真を撮ってもらったり、新聞に死亡通知を出したり、「横尾忠則遺作集」と題する作品集の準備をしたりした。

2.三島由紀夫氏
宇野亜喜良さん、原田維夫君と私の3人で事務所を持った次の年、ぼくは三島由紀夫に出会った。きっかけはぼくの初めての個展だった。氏の気に入られた作品を差し上げたところ、三島邸に招待された。そしてその作品は氏が亡くなるまでずっと書斎の壁に飾られることになった。世界中で一番会いたかったのが「三島由紀夫」だったので、この縁は神仏の計らい以外に考えられなかった。
 気がついたら、ぼくは三島由紀夫のほとんどの本を紐解いていた。小説への興味はいつの間にかパフォーマンス的三島由紀夫の人物像に関心が移っていった。ぼくは三島氏のような深遠な思想も軍人のような強い信念もない。ましてぼくは礼節を欠いた人間だ。
 後に三島さんといろいろ重要な仕事をすることになる。三島さんはぼくの作品を「無礼な芸術だ」と評された。無礼だからこそ芸術家なのだ。しかし、芸術が縦糸なら礼節は横糸、それを認識して初めて霊性高い芸術が創造できる。今考えると、それをぼくに教えようとされたのである。

3.デザイナーと画家との違い(デザイナーから画家になって)
仕事の依頼のないデザイナーはデザイナーではないが、画家は依頼がなくても画家だ。画家は職業ではなく人生だからだ。精神世界で実現できなかった心と体の一体化は絵を描くことで果たしてくれるかもしれない。精神世界はどこか遠くにあるものだと思ってインドで探しまわったりしたが、実は足元にあったというわけだ。つまり絵を描くことが精神世界の実践だったのである。

4.ジョン・レノン
ニューヨーク近代美術館の個展が決定したという通知を受けたぼくはパリからこちらに打ち合わせで飛んできた。ぼくの個展はピカソとマチスの二人展と同時開催されることになっていた。この時の滞在期間は短かったが、ぼくはここで思わぬ人物に出会った。ニューヨークに行くたびに会っていたジャスパー・ジョーンズに「君にぜひ会わせたい人がいるから」と言って家に招待された。現れたのはジョン・レノンだった。
 翌日、レノン夫人の小野洋子さんから連絡があって家に遊びに行くことになった。ジョンは気さくで子供のまま大人になったような性格で、一挙手一投足がぼくの関心を引いた。ジョンの友人で革命の闘士として全米に知られていたジェリー・ルービンもやってきた。ぼくは彼が書いた革命に関する本を読んでいたので、いっぺんに意気投合した。

5.芸術・・・知性より霊性を優先
現代は知性が一番偉い時代らしい。だけど知性よりもっと偉いのは霊性で、知性は霊性への神化のプロセスなのではないだろうか。現代美術でも同じことが言える。知的に認識されることを芸術表現と理解されている作品に対しては確かに観念や思想は必要だろう。しかし、本来の芸術は知性に語りかけるものではなく、魂を呼び覚ます働きを有するものではなかったか。
 今ぼくがぶつかっている問題である。芸術に思想が必要でないと言うのも知性より霊性を優先するためだ。思想は「我」を越えられない。「我」を越えるのは信念である。信念を持つことにより霊性が高められよう。礼節もまたしかりだ。芸術家はいかに「個」になれるかが問題だ。これらの問題を抱えているので、階段の下に立っている自分が俯瞰できる。

横尾 忠則
Tadanori Yokoo
誕生日 (1936-06-27) 1936年6月27日(87歳)
出生地 日本の旗 日本兵庫県西脇市
運動・動向 サイケデリック
オカルティズム
シュルレアリスム
芸術分野 美術家画家グラフィックデザイナー作家
出身校 兵庫県立西脇高等学校
代表作 『腰巻お仙』
『万博太陽』
『葬列 II』
ロータスの伝説
受賞 宣美展 奨励賞
1958年
東京ADC賞 銅賞
1963年
兵庫県文化賞
1987年
毎日芸術賞
1995年
ニューヨークADC賞 金賞
1997年
紫綬褒章
2001年
紺綬褒章
2004年
日本文化デザイン大賞
2006年
泉鏡花文学賞
2008年
旭日小綬章
2011年
朝日賞
2011年
高松宮殿下記念世界文化賞
2015年
講談社エッセイ賞
2016年
ウェブサイト www.tadanoriyokoo.com
会員選出組織 西脇市名誉市民
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横尾 忠則(よこお ただのり、1936年6月27日 - )は、日本美術家グラフィックデザイナー版画家作家

2000年以降は、幼少期を過ごした故郷・兵庫県西脇市Y字路をモチーフに多くの絵画を描く。描いたY字路作品は150点以上[1]

実弟の成瀬政博画家イラストレーター。長女の横尾美美も美術家[2]日本芸術院会員。

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  2. ^ Museum Cafe BANANA MOON公式サイト
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