掲載時肩書 | 洋画家 |
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掲載期間 | 2015/11/01〜2015/11/30 |
出身地 | 奈良県 |
生年月日 | 1943/01/24 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 奈良高 |
入社 | 芸大大学院 |
配偶者 | 美大娘 |
主な仕事 | 卒業作が最高賞、フレスコ画(法隆寺壁画動機)、伊国、高松塚古墳、安井賞→絹谷賞、子供教室 |
恩師・恩人 | 小磯良平師、林武師 |
人脈 | ゴーギャン尊敬、石川六郎、中村吉右衛門、武藤敏郎、長嶋(富士)、和田勇、 |
備考 | 実家:料亭 |
氏は、画家で「履歴書」に登場した21人目である。掲載順に川端龍子、東郷青児、東山魁夷、岩田専太郎、前田青邨、坂本繁二郎、熊谷守一、奥村土牛、棟方志功、中川一政、橋本明治、山本丘人、猪熊弦一郎、山口華楊、上村松篁、平山郁夫、加山又造、奥田元宋、野見山暁治、安野光雅であった。
1.法隆寺壁画の災禍
氏が壁画に興味を持ったのは、生まれ育った奈良と深い関係があった。法隆寺の災禍に会った壁画は、柱はすっかり炭化し、壁画の色は失われ、わずかに輪郭を残すのみ。しかし、劫火をくぐり抜けた壁画の異様な様相は、紙やカンバスに描かれたどんな絵も吹き飛ばしてしまうほど迫力があった。人間一人が持つ時間など超越して存在し続けるのが壁画なのだと直感した。子供のころから見慣れた東大寺南大門や大仏様の雄大さに戦慄を覚えたのもその時だった。
2.フレスコ画の魅力
氏はイタリアに留学するが、オペラやコンサート音楽や宗教絵画が生活に密着し、その生活を人びとが楽しんでいるのを発見する。そして寺院や宮殿の壁画の魅力に憑りつかれ、フレスコ画技術の習得にまい進した。 フレスコ画とは、生乾きのしっくい壁に水で溶いた顔料で絵を描く古典的な技法であるが、それは「たっぷり水分を含んだ筆で半乾きのしっくいに描いていくと、壁が乾くにつれて顔料が肌に施した入れ墨のように差し込まれていき、表面にガラス状の結晶が現れる。私の心の中から湧き出た感情が、時間とともに鮮やかな色面となって永遠に凍結されてゆく」と書いている。
3.私の絵画授業
また、氏はニューヨークの子供たちに絵画授業を受け持ったとき、次のように指導した。「アートアカデミーの私の授業では、絵の具はそのまま使ってはダメだよ、と子供に伝える。チューブから出したままの「赤」では、全員が同じ色になる。「緑やほかの色をほんの少し、混ぜてごらん。料理の時に甘いお汁粉に塩、辛いカレーに蜂蜜を入れるように、隠し味を入れてみよう」。すると100人100色の「赤」ができた。そしてそれで絵を描かせてみると、各自が個性的なものとなったという。 ヨーロッパに行くと、ネクタイでも車でもシックで落ち着いた色彩に驚かされるが、それは補色に近い色をほんの少し、スパイスとして混ぜているから。「反対の色や意見を取り入れながら個性をはぐくみ、調和を尊重する。それは人間の文明の力であり、知恵である」と強調しているが、色の芸術家の卓見だと思った。
絹谷 幸二 | |
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絹谷 幸二 | |
文化勲章受章に際して 公表された肖像写真 | |
生誕 | 1943年1月24日(81歳) 奈良県奈良市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京芸術大学美術学部卒業 |
著名な実績 | 洋画 |
代表作 | 『アンセルモ氏の肖像』 (1973年) 『ダリア・ガナッシィーニの肖像』 (1975年) 『アンジェラと蒼い空II』 (1976年) |
受賞 | 安井賞(1974年) 毎日芸術賞(1989年) 日本芸術院賞(2001年) |
公式サイト | kinutani |
選出 | 日本芸術院 |
民族 | 大和民族 |
絹谷 幸二(きぬたに こうじ、1943年〈昭和18年〉1月24日 - )は、日本の洋画家。勲等は文化勲章。独立美術協会会員、大阪芸術大学教授、東京芸術大学名誉教授、日本芸術院会員、文化功労者。
東京芸術大学美術学部教授、一般社団法人日本美術家連盟理事などを歴任した。