奥田元宋 おくだ げんそう

芸術

掲載時肩書日本画家
掲載期間2000/03/01〜2000/03/31
出身地広島県
生年月日1912/06/07
掲載回数30 回
執筆時年齢88 歳
最終学歴
中学校
学歴その他児玉希望 師匠に弟子入り
入社絵画アルバイト
配偶者先妻・楽器娘、後妻・人形作家
主な仕事弟子挫折、再入門、入選・特選、人物→自然、日月社、元宋の赤、日展理事長、銀閣寺襖絵
恩師・恩人小学 山田幾郎先生、児玉希望師匠(仲人)
人脈橋下明治、熊谷守一、伊東深水、川合 玉堂(児玉師)、東山魁夷(青)、高山辰雄(再婚仲人)、杉山寧、
備考元宋の赤、魁夷の青
論評

1912年(明治45年)6月7日 – 2003年(平成15年)2月15日)は広島生まれ。日本画家。妻は人形作家の奥田小由女。「元宋の赤」と言われる独特な赤色が特徴。「美術人名辞典」(思文閣)によれば「自然と自己の内面を照応した幽玄な山水で精神性の濃い絵画世界を築く」と評されているほか、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典には「日本の風景美の伝統を受け継いだ静かで神秘的な水墨画の世界に、多彩な色使いによる色彩美を加え、新朦朧派と評される独自の風景画を確立した」と解説されている。また、歌会始の召人に選出されており、歌人としても著名だった。

1.絵の具・溶きで指紋が消えた
私の一日は、自分の右手中指で絵の具を溶くことから始まる。洋画の絵の具はチューブに入っていて、出せばそのまま使える。一方、日本画は絵皿に粉状の岩絵の具を入れ、膠を混ぜて水で溶かさなければいけない。糊の役目を果たす膠は冷えると固まってくるので、電熱器で絵皿を温めながらの作業となる。
 金泥を溶く場合はもっと面倒だ。金は岩絵の具より粒子が細かい。そのため膠を練りこむには、熱々の絵皿の中を丹念にかき回す必要があり、一歩間違えばやけどする。長い間こういう作業を続けているうちに、中指は熱と摩擦で指紋が消え、ツルツルになってしまった。

2.父の涙が再起の原動力
児玉希望塾に入門したものの、自分には才能がないと諦め出奔した。悶々とした2年の日々を送っていると父が「児玉先生のところに戻ってやり直せ」と広島から上京して、児玉先生宅に同行してくれた。
 「不肖の息子で申し訳ない事をいたしました。どうかお許しください。もう一度絵の修業をやらせてください」と父が頭を下げた。私も正座し頭を下げた。
 先生はよそよそしい態度で「絵描きにはならない方がいいですよ」とおっしゃった。それでも父は畳に頭をこすりつけたまま「何とかお願いします」と繰り返す。自分が蒔いた種とはいえ、父の姿を目のあたりにして忍びなかった。「父さん、もう帰ろう」と父の腕をとり、一緒にその場を辞した。父の目には涙がにじんでいた。
 私は悲痛な父の姿を見て、「親不孝をした」と感じた。そして「親孝行をしなくては」と痛切に思った。たとえ独学でも絵を勉強し直して画家になろう・・・。父の涙は再起の原動力となった。数日後、先生から「本当にやり直す気持ちがあったら、また来てもいい」と父に手紙があった。

3.日展の審査員
1955年(昭和31)、43歳の時、初めて審査員になった。日展は日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の5科からなり、各科ごとに審査する。審査員はそれぞれ15人ほどで、うち新人は2,3人ぐらい。初めて審査員を務めたこの年は審査主任の野田九浦を筆頭に、小野竹喬、福田平八郎、山口篷春、伊東深水、徳岡神泉、山口華楊らそうそうたる大先輩がおられた。そのため、緊張のあまりガチガチになった思い出がある。
 日本画の応募点数は600点ぐらいあった。じっくり時間をかけて監査する余裕はなく、次々と運び込まれる作品の出来を数秒のうちに判断しなければならない。
 本音をいうと審査はされる方だけでなく、する方もつらい。長い時間をかけて絵の構想を練り、懸命に制作した作品があっという間に判断される。その結果は出品者の人生さえ左右しかねない。私自身、落選の憂き目にあった次の年は、出品の際にどれほど勇気がいったことか。満足のいく作品を描けても、展覧会で発表する時は、どう評価されるだろうかと常に不安が付きまとうからだ。

奥田 元宋
(おくだ げんそう)
本名 奧田 嚴三(おくだ げんそう)[1]
誕生日 1912年明治45年)6月7日[1]
出生地 大日本帝国の旗 大日本帝国広島県双三郡八幡村(現・三次市吉舎町八幡)[1]
死没年 (2003-02-15) 2003年2月15日(90歳没)[1]
死没地 日本の旗 日本東京都練馬区富士見台[1]
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国日本の旗 日本
配偶者 奥田小由女(人形作家)
代表作 『待月』
『磐梯』
『秋山紅雨』
『奥入瀬』[2]
受賞 日本芸術院賞(1963年)
文化勲章1984年
影響を受けた
芸術家
南薫造[1]
児玉希望[1]
ピエール・ボナール[1]
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奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年明治45年)6月7日 - 2003年平成15年)2月15日)は日本画家。元・日本芸術院会員1984年(昭和59年)に文化勲章受章。本名奧田 嚴三(おくだ げんそう)。は人形作家の奥田小由女[3]

  1. ^ a b c d e f g h 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「奥田元宋」(2015年12月14日)、2020年11月12日閲覧。
  2. ^ 奥田 元宋(おくだ・げんそう)”. 広島県 (2011年12月1日). 2020年11月12日閲覧。
  3. ^ 高山辰雄と奥田元宋展”. 朝日新聞社 (2010年). 2019年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月12日閲覧。
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