掲載時肩書 | ニッカウヰスキー社長 |
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掲載期間 | 1968/05/30〜1968/06/26 |
出身地 | 広島県竹原 |
生年月日 | 1895/06/20 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 大阪大学 |
学歴その他 | |
入社 | 摂津酒造 |
配偶者 | リタ(英国) |
主な仕事 | 米、英、仏国、グラスゴー大学、壽屋、大日本果汁(ニッカ)、モルト>グレンwisky |
恩師・恩人 | 摂津阿部社長 |
人脈 | 鳥井信治郎(小西儀助出身)山本為 三郎、池田勇人(忠海中1下) |
備考 |
NHK朝のテレビ小説「マッサン」は大人気のうちに3月28日(土)で終わった。私は毎日これを見てはいないが、家内からこのストーリーは聞いていた。氏は、昭和43年(1968)の76歳で「私の履歴書」に登場している。私は「私の履歴書」で竹鶴氏が書いている内容から印象深かった箇所を述べてみる。
1.多くの恩人への感謝
その冒頭、「今、英国以外でスコッチスタイルのウィスキーができるのは日本だけで、私はこのウィスキーづくりを最初に英国に行って学んで来た男である。今までに50年かかっているが、まだこれで満足というところまで到達していない。しかし、多くの人の善意の支援があってここまでやってこられた。第一は英国留学をさせてくれた摂津酒造の阿部喜兵衛社長であり、10年間の予算とウィスキーづくりに専念させてくれた寿屋の鳥井信治郎社長、カフェ・グレーンを日本で最初に作るときに積極的に援助をしてくれた朝日麦酒の山本為三郎社長らであり、英国での指導者、グラスゴー大学のウイリアム博士やイネー博士らの懇切丁寧な指導があればこそであった」と感謝の念を述べている。
2.ウィスキーづくりの原点
彼は英国留学中、ウィスキー工場でピートの煙でむしながら麦を乾燥させる。このとき木製のシャベルで麦をひっくり返しながら、まんべんなく乾燥させるのがコツの一つであるが、この仕事は熱さと煙の中で生き地獄のような仕事であった。また、蒸留を終えた窯の中で掃除をするのも、人の嫌がる仕事だった。しかし、何としても本格的ウィスキーづくりの方法を身につけたいと必死になっていた彼は、どんな仕事でも進んで買って出た。これらの体験が日本に帰って役に立ったのだった。
3.運命の出会い
愛妻リタとの運命の出会いは、次のように述べている。英国では、クリスマスの日のために、何ヶ月もかけて作るブディングがある。この中に6ペンスの新しい銀貨と裁縫に使う指ぬきを入れて、占いを楽しむ習慣があった。その中に銀貨が入っていると、その人は「金持ちになれる」、女の子に指ぬきが当たれば「いいお嫁さんになれる」、そしてもし、女の子に指ぬき、男に銀貨が入っていれば二人は将来結婚する、というたわいない占いであった。ところが偶然二人がこれに当てはまったので、みんなから冷やかされたと。
4.テレビと「私の履歴書」記述との違い
テレビと違っていた箇所は、マッサンの母親がリタとの結婚をなかなか認めず、リタが来日しても再三「離婚を勧める」ことはなかった。最初は反対したが、摂津酒造の阿部社長がリタの人物鑑定に英国に行く際、「良い人なら結婚を認める」と言っていたことが一つ。もう一つは、テレビでは二人結婚は英国の教会で牧師とささやかに挙げたことになっているが、周りの祝福をもらい盛大だったと書いている。
たけつる まさたか 竹鶴 政孝 | |
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肖像(1920年頃) | |
生誕 | 1894年6月20日 日本 広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市) |
死没 | 1979年8月29日(85歳没) 日本 東京都文京区 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 広島県立忠海中学校 ↓ 大阪高等工業学校 |
職業 | 実業家 |
著名な実績 | 日本国内における国産ウイスキーの普及 |
配偶者 | 竹鶴リタ |
子供 | 山口房子(竹鶴リマ)(養女) 竹鶴威(甥、養子) |
受賞 | 勲三等瑞宝章 北海道開発功労賞 |
竹鶴 政孝(たけつる まさたか、1894年6月20日 - 1979年8月29日)は、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の日本の実業家。ウイスキー製造者、技術者。会社経営者。ニッカウヰスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖、マルスウイスキーの間接的始祖でもある。これらの業績から「日本のウイスキーの父」と呼ばれる[1][2][3]。