稲葉興作 いなば こうさく

輸送用機器・手段

掲載時肩書日本商工会議所会頭
掲載期間1995/04/01〜1995/04/30
出身地シンガポール
生年月日1924/01/16
掲載回数29 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
東京工業大学
学歴その他松本高校
入社石川島芝 浦タービン
配偶者見合:8回目の医者娘
主な仕事小学校4回転校、設計マン、IHI(石川島+播磨)に転入、ターボエンジン、ジェットエンジン、日商会頭
恩師・恩人土光敏夫
人脈麻布中(吉行淳之介・久米明・小沢昭一・フランキー堺)、藤森昭一、社長(田口連三→真藤慎→生方泰二)、松沢卓二、長岡実
備考父:三井物産、母:益田孝・弟長女、得意:整理術
論評

1924年1月16日 – 2006年11月26日)は、シンガポール生まれの実業家。昭和21年石川島芝浦タービン(現石川島播磨重工業)に入社。ターボチャージャーの原型である排気タービンの設計開発にたずさわり,47年取締役,58年社長,平成7年会長。日本商工会議所会頭を務めた。

1.入社時の地位は「練習員」
終戦からほぼ一年経った昭和21年(1946)9月に卒業したが、戦後の混乱期、誰も食うだけで精一杯、就職口はなかった。大学の津村教授の口利きで「石川島芝浦タービン」に決まった。社長は土光敏夫氏だった。入社してすぐは「練習員」といい、給料は日給、それも7円50銭で、うどん一杯10円よりも安かった。
 この会社は、その名の通り、蒸気タービン製作が中心の会社であった。設立は1936年(昭和11)、二・二六事件の年になるが、芝浦製作所と東京石川島造船所の共同出資によるものだった。タービンは船舶用としては広く用いられていたが、同社は陸上の発電用の製造を目的として設立された。社員は当時、2000人ほどだった。一部破損した工場は、焼けたトタンやムシロでそれを応急修理しただけで、外見からしていかにもみすぼらしかった。

2.土光敏夫さんは率先垂範の人
土光敏夫さんは社長室にデンと座っているような人ではない。設計室にもよく「巡回」して来る。「図面の紙を使いすぎる。こんなの一枚でいい」などと注意があり、ケチな親父だな、としか、最初は思っていなかった。
 入社2年目の時、工場で事故が起きた。コンプレッサーの試運転中に、部品が折れ、その破片が私の上司に当たった。生命も危ぶまれる状態だったが、当時は救急車の手配もままならない。急ぎトラックで運ぶことにした。そこへ、土光さんが駆け付けてきた。そして「オレも手伝う」と、自ら担架の片方を持ち、血まみれの上司をトラックの荷台まで運んだ。輸血が必要だった。直ちに、上司と同じ血液型のO型の社員に招集がかかった。私もO型だ。献血のために並んでいると、土光さんが私を見て、「君は最後に並べ」といった。「新入社員だから」というのだった。ひ弱そうな新米社員への気配り、これを行動に移す土光さんを見た。
 同じころ、工場の水洗便所が、しばしば詰まって流れない。土光さんは「怒号さん」のあだ名通り、「ダメじゃないか、早く直せ」と、どなるようにいった。だがパイプが痛んでいたのか、思うように直らなかった。ところが数日後、水洗はきちんと元に戻っていた。数か月後にその修理人物は分かった。土光さんだったのである。この人は、どえらい人だと、みんな敬服するばかりだった。

3.生コン・ポンプ車の開発
1965年(昭和40)、私は汎用機事業部の技術部長になった。その中で思い出深いのがコンクリートポンプである。セメントと骨材、砂そして水を加えてかき混ぜた生コンクリートは、従来はバケツ状の容器に入れて運び、建築や土木の現場で打設されていた。これをポンプで送り(圧送)、さらに自動車に積むようになる。
 ここで一番驚いたのは、生コンの性質だった。このドロドロした生コンが理論通りに流れない。管の中を流すと、よく詰まってしまう。丁度ラッシュアワーの改札口のようになる。また、圧力をかけれ水は勢いよく噴出するが、生コンは折角かき混ぜたものが分離して、外側に水が染み出てしまう。地震の際に起こる液状化現象と似ている。
 それまでの流体の勉強は、全く役に立たず、これを解決するには、「粒度分布」が重要だと教えられた。例えば、砂利の大きさや形まで、いろんなものが、ある割合で混入されていると流れやすい。人間組織でも職場でも、同じ出身、同じ年次、同じ専門ばかり集まれば、運営はうまくいかない。生コンの圧送の問題は、驚くほど社会と似ているなどと考え合わせながら、苦労を吹き飛ばす材料にしていた。
 日本で最初のコンクリートポンプ車が世に出たのは1965年7月のことだった。工事の大型化に伴い、長いホースを付けた。1972年に、日本で初めて100mを超す高層ビルの打設に挑んで成功した。一昨年、横浜・ランドマークタワーでは、最上階の高さ276mまで、ポンプで生コンを送るのに成功した。

4.田口連三氏と真藤恒氏は好対照
IHIは「野武士集団」と言われた時期がある。個性的な人材を輩出させる企業だからである。トップ自身がそうだった。例えば田口連三さんは、「営業のタグチ」の異名をとり、注文を取ってくる上での、辣腕ぶりは、語り草である。そのためならば、いくらでも酒を付き合う豪快な性格でもあった。
 真藤さんになると、「合理化のシントウ」との評価だった。システムの管理などは米国式で見事であった。冷静さを絵にしたようなマネジメントである。
 田口さんと話していると、とにかく賑やかで、「競合するどの会社も作っている製品は、客先からみると五十歩百歩だ。一番大事なのは営業の力だ」と、たちまちに叱咤と激励が飛んでくる。
 真藤さんは正反対、理路整然と、「技術さえ優れていれば、先方は黙って応対してくれる」という。ロゴス、理論の人、という展開であった。
 とにかくあれほど好対照な社長も珍しいのではないかと、当時から感じていた。しかし後に考えると、個性とは時代によって生きるものだということである。ともにその時代、時代では我々の牽引車の役割を果たしたのだから。

稲葉 興作(いなば こうさく、1924年1月16日 - 2006年11月26日)は、シンガポール生まれの実業家石川島播磨重工業社長、会長、日本商工会議所会頭、日本会議会長を務めた。

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