田口連三 たぐち れんぞう

輸送用機器・手段

掲載時肩書石川島播磨重工業会長
掲載期間1975/07/27〜1975/08/22
出身地山形県
生年月日1906/02/03
掲載回数27 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
山形大学
学歴その他山形工業
入社石川島造船所
配偶者我孫子 >田口
主な仕事石川島重工業、播磨造船と合併(IHI)、日本機械工業連合会、日本造船工業会
恩師・恩人為本先生(絵)
人脈河田重、浅尾新甫、土光敏夫(10年先輩)、真藤恒、山下勇、
備考両親の子供躾が大切
論評

1906年2月3日 – 1990年3月14日)は山形県生まれ。実業家。石川島播磨重工業社長や、同社会長、日本機械工業連合会会長、日本・トルコ協会会長などを歴任した。1973年日本産業広告協会会長。日本銀行参与なども務めた。

1.石川島造船の気風
石川島は機械工業のパイオニアだった。ここには日本全国から鍛冶屋が集まり、3年ほど修業して転出すると給料が上がったという。かように、当初から技術中心、商売下手という気風があった。もう一つ、石川島は財閥系に一切くみしない。同系列に、金融、商事、鉱山など、多角的経営分野を所有していた財閥系重工業は、育成段階から他部門の利益でこれを支えることができた。しかし石川島は重工業のみだ。それで財閥系に対抗するには実力しかなく、それには人間の力を最大に生かすほかに手はなかった。
 生き馬の目を抜くような経済界に独立独歩で進もうとあらば、派閥、学閥で大騒ぎするなどとんでもない。やる気があり、やる能力のある人間に仕事を任せる。それだけが社を支えた。合理的な実力主義、民主主義が実行されていたのである。だから私の入社時、重役にも夜学で苦労した人がいたし、小学校しか出ていないのに独学で高等数学やドイツ語をマスターした人がゴロゴロいた。

2.土光敏夫氏の社長就任
昭和25年(1950)6月、土光さんが石川島重工業の社長に就任した。彼はもともと石川島の社員で、私より10年先輩だ。私と同じ技術端の人間で、私の設計部時代は隣の部屋にいて、建物はバラックみたいなものだから、彼の怒鳴り声をよく聞いている。
 社長として今日は得意先を回る日である。彼は裏がズタズタになった古ぼけた背広を、平気でひっかけてやってくる。私はたまりかねて忠告した。「社長、いくら何でもこれでは困ります。いくら貧乏でも、貧乏くさい恰好をしたら銀行あたりでも信用してくれない。会社は注文をくれない。人間とはそんなもんです。実力はなくても、洋服だけはちゃんとして行かないとダメですよ」。
そんなものかなと、土光氏は洋服を新調したが、後で、「君のお蔭で、背広を4着も注文させられたよ」と、ぼやく始末であった。

3.重機械メーカーの受注目標設定
土光体制の下で、経営の合理化、生産増強、技術開発など発展の方向を模索した。当時の私は、プランニングの世界に興味があり、生産量、受注量、利益率の計算、計画立案などを好んで行った。当時の石川島は、月間生産額が3億円程度だ。年間45億円もあればはみ出して、下請けにも出せる状態である。
 日本の予算は約1兆円だった。その部門別のワクが決まれば、鉄鋼、造船などへの配分も明らかになる。民間企業にしても、銀行調査などのデータで事業資金の流れはつかめる。さらに、例えばアンモニアの年間推定生産量が出れば、付随する起重機、コンプレッサーの必要量も出せる。こうして、社内の総力を挙げて膨大な経済データを集めた。
 一方、社内では、例えば起重機の過去5年間の受注量、見積額を整理し、それが全国の起重機受注量の何パーセントに相当するかを見る。こうして国家資金と事業資金の流れの中で、当社の受注量の可能な目標数値を設定した。はじき出した受注量はノルマとして各部課に割り当てる。汎用機種については個人段階にまで課す。「君はあそこの社から年間、何億の受注をせよ」と決める。
 要するに今でいう「目標管理」を実行したのであるが、当時は新しい試みだったようだ。この方法がIHIを今日にした原動力の一つだったと思う。26年(1952)は45億円、28年98億、29年はデフレで84億、30年100億、32年230億、34年310億と目標どおり進んだ。

田口 連三(たぐち れんぞう、1906年2月3日 - 1990年3月14日)は、日本実業家石川島播磨重工業社長や、同社会長、日本機械工業連合会会長、日本・トルコ協会会長などを歴任した。

[ 前のページに戻る ]