稲尾和久 いなお かずひさ

スポーツ

掲載時肩書元西鉄ライオンズ投手
掲載期間2001/07/01〜2001/07/31
出身地大分県
生年月日1937/06/10
掲載回数30 回
執筆時年齢64 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他
入社西鉄
配偶者4歳上
主な仕事バッティング投手、20連勝、42勝、西鉄、 ロッテ監督
恩師・恩人三原 修
人脈畑隆幸、豊田泰光、大下弘、中西太、長嶋、野村、王
備考父:12歳双 葉山に負ける
論評

1937年6月10日 – 2007年11月13日)は、大分県別府市生まれ。プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。シーズン42勝はヴィクトル・スタルヒンと並ぶNPB最多タイ記録、シーズン20与敬遠はNPB記録。またNPB最多記録となる投手三冠王を2回達成。NPB最多記録となる最優秀防御率を5回獲得、パ・リーグ最多タイ記録となる最多勝利を4回獲得、パ・リーグ投手最多タイ記録となるベストナインを5回受賞している。現役時代は西鉄ライオンズの主戦投手としてチームの3年連続日本一に貢献し、連投・多投の中で好成績を挙げたことから「鉄腕」の異名で呼ばれた。(漁師の父は町の横綱)

1.漁師の訓練(足腰の鍛錬)
1945年8歳の夏から。毎夕にぎりめしを携え、長さ4,5mほどの伝馬船に父親と乗り込む。私が“とも”で櫓をこぐ。水中で返しながら漕ぐのだが、波に逆らうと体ごとはじき飛ばされそうになった。別府の高崎山を目指して1時間以上漕いで漁場につくのだが本当の仕事はそこからだ。釣った魚の逃げる方向に父の指示通りに操船できないと、親父の青竹が頭に飛んで来る。夕方漁に出て、帰るのは朝だ。夜は親父と波に揺られて、船で寝る。年間200日ぐらいは船上泊だ。櫓漕ぎで鍛えた足腰が後に私の制球力の源となる。
 強肩:軟式球より少し重い石を20~30個も積み込み、中腰で投げる。日ごとに距離が伸びていくのがうれしかった。
 制球もそうだ。ボールをいつもズボンのポケットに入れておき、親指、人差し指、中指の3本でグイッ、グイッと握る。握力の鍛錬が主眼だが、ボールに長く触って分、指先の感覚が研ぎ澄まされた。いつも股間のあたりでもぞもぞしているので、女子生徒には気味悪がられたが・・
 
2.打撃投手での気づき
野武士の大下弘さん、中西太さん、豊田泰光さんら殺人ライナーを連発する選手に投手用の防護ネットがない時代に打撃投手を務めた。毎日300球~400球も投げた。ストライクばかりでは人によっては「疲れるではないか。3球に1球は外せ」という。ボール球も球1個分を外し、内角のあとは外角へと試していった。いずれ劣らぬつわもの、くせ者相手の100球はブルペンでの200球に相当する値打ちがあった。打撃練習のマウンドが宝の山に変わっていた。この実践で制球力がついた。しかし、練習から帰ると宿舎の二階までの階段が上がれないほどへとへとになっていた。

3.20連勝
プロ入り後わずか1年で20連勝を達成した。前年に比べ身長も体重も一回りも二回りも大きくなっていた。投げるたびに球が速くなる気がしたが、錯覚ではなかった。体だけではない。制球も、よりち密になっていた。高校の先輩の河村さんたちと遊びで制球力競争をしたが、一番手の私が、外角低めに寸分の狂いもなく10球連続で決めるものだから、先輩たちは「やってられん」と試合放棄した。
 二季にまたがって松田清投手(巨人)も20連勝をマークしている(51-52年)が、1シーズンでは単独の日本記録。最近では巨人・上原浩治投手が99年に15連勝したが、20勝投手自体、絶えかかっている今となっては更新は難しいだろう。(現在は楽天・田中将大投手が2013年に24連勝がギネス記録)

4.スタミナ源
睡眠こそ私のスタミナ源。一日12時間は寝た。ナイター開始が午後7時だとすると、起きるのは午後4時でいい。すると午前4時までは飲めるぞという風に、遊びのタイムリミットも睡眠時間から逆算したものだ。

稲尾 和久
1956年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県別府市
生年月日 (1937-06-10) 1937年6月10日
没年月日 (2007-11-13) 2007年11月13日(70歳没)
身長
体重
180 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1956年
初出場 1956年3月21日
最終出場 1969年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1993年
選出方法 競技者表彰

稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - 2007年11月13日)は、大分県別府市出身のプロ野球選手投手)・コーチ監督解説者評論家血液型はB型。

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