掲載時肩書 | 元日本社会党委員長 |
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掲載期間 | 1998/09/01〜1998/09/30 |
出身地 | 台湾 |
生年月日 | 1924/10/06 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 陸軍士官学校 |
学歴その他 | 台北高商 |
入社 | 進駐軍組合 |
配偶者 | 組合職場結婚 |
主な仕事 | 陸軍少尉、県議、衆議員、非武装中立論、党内抗争、成田委員長―石橋書記長、委員長、小選挙区反対 |
恩師・恩人 | 西岡竹次郎知事 |
人脈 | 大平正芳、福永健司、田中角栄、福田一、石橋ー田辺誠ライン |
備考 | 勲一等旭 日大綬章・拒否 |
1924年10月6日 – 2019年12月9日)は台湾生まれ。政治家。全駐労出身。日本社会党書記長・副委員長・委員長を歴任した。社会党は、与党に対し対案を提示することは「資本主義社会の是認に繋がる」として止めてしまっていた。石橋の目的は社会党を「何でも反対すること」を自己のアイデンティティとする政党ではなく、また共産党を含めた全野党共闘路線とも違い、自民党との政権交代可能な政党へと脱皮させることにあった。西欧の社会民主主義政党は、外交や安全保障など国家の基本政策では保守と一致しつつ、生活に根ざした政策の細部で競うという現実路線を採っていた。
1.一年議員で新法を・・駐留軍離職者対策法
私は1年生議員で理事となった。福永健司内閣委員長の協力を得て実現した私の最大の仕事は「駐留軍関係離職者等臨時措置法」の制定である。在日米軍の大幅削減によって、基地労働者も約10万人が職を失うという大問題に直面した私は、新米議員としては誠に荷が重かったものの、救済のための立法に取り組まなければならなかった。国会図書館の立法考査局に通って、組合の要求を法案要綱に纏めてもらい、これを衆議員法制局で条文化することから始めた。
離職者の職業訓練、就職指導、特別給付金の支給、事業資金の融通・斡旋などを規定した法案だったが、昭和32年(1957)11月6日、委員会に付託、8日に私が提案理由の説明を行った。この法案は内閣提出により改めて成立。5年の時限立法だったが延長を重ね現在も続いているばかりか、その後炭鉱離職者や造船関係の離職者対策のモデルになった。
2.話せる政治家(田中角栄氏)
角さんとの最初の出会いは、彼が39歳の若さで郵政大臣に抜擢された時だった。ある日、小野吉郎次官を伴って議員会館の私の部屋に来た彼は「どうしてうちの法案を通してくれんのだ。若い者同士は助け合わなきゃ」と言うのだ。「そんなことを言ってもダメなものは通すわけにいかん」という私に「全部ダメか」と尋ねるので「そうじゃない」と答えた。
郵政省設置法改正案のポイントは4つだった。役所の名前を逓信省にするという点と、電波管理局に3部制を設けるという点は結構。しかし、官房長と電話局の新設は反対すると説明するや否や「よし分かった。その2つを削ってくれ」と即座に答え「次官、廃案になるよりいいじゃろう」というではないか。あまりの早業に驚きながらも私は条件を出した。「全逓の諸君の処分をしないと約束してくれ」というと、「司法処分は求めない。しかし行政処分はやる」と即決だった。
角さんは、一度合意したら絶対にバナナの叩き売りはしない。合意した相手のメンツは必ず守るという彼のやり方は常に一貫していた。角さんがもたらした弊害も大きかったが、私は一度も裏切られなかった。
3.非武装中立論(石橋構想)
私は昭和55年(1980)の長崎原水爆大会に出席した翌日から丁度3週間、「非武装中立論」を机の前に座りきりで書き上げた。発売前から大変な反響を呼び、30万部のベストセラーとなった。
この本は国際的にも関心を持たれたので英語版も出したが、その他私の知る限りロシア語、ドイツ語、部分的にはフランス語訳もあり、翻訳の了解を与えたものとしてはモンゴル、ラオスなどがある。出版を契機に講演依頼も相次ぎ、2年間に200か所は回ったと思う。驚き感激したのは、会場でのサインが平均150人、那覇ではなんと500人もの人が行列をつくったことである。
この本で私が力説したのは、日本国憲法の絶対平和、具体的には非武装中立の理念は、人類が生き残るための唯一の道だということだ。武力に頼り、武力の行使を肯定する限り、核を使用しないというのも幻想にすぎず、人類は必ずや滅亡するというのが私の信念なのだ。この理念が人類普遍の真理として、世界中で見直される日の来るのを期待してやまない。
氏が‘19年12月9日に95歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は1998年9月74歳の時であった。社会党(民社党含む)からの登場者は、鈴木茂三郎、浅沼稲次郎、西尾末広、片山哲、河上丈太郎、江田三郎、三宅正一、春日一幸、佐々木更三、佐々木良作、勝間田清一、土井たか子、村山富市に次いで14番目であった。
氏は熊本県の陸軍士官学校を経て、終戦後、長崎佐世保市で米軍基地従業員として働いた。雇用不安のうわさから労働組合を結成して書記長に就任し、51年に社会党から同県議選に出馬し当選する。55年の衆議院選で、30歳の若さで初当選した。60年の「安保国会」では、後に社会党委員長となる飛鳥田一雄氏らとともに論陣を張り「安保5人男」と呼ばれた。党内では総務局長、国際局長、書記長、副委員長を歴任して、政策、財務、党務の3重要部署をこなし、理論家として自民党に対峙した。
氏は、妻や子にも特権意識を持たないように求め、百の説法よりも効果のある方法を実行した。それは住んでいたアパートは風呂がなく、社会党書記長時代の末期までの30年間、銭湯かよいを続けていたのだった。そして、敗戦直後から半世紀、仕事一途に生き、碁、将棋、玉突きなどは学生時代にやったきり。麻雀、ゴルフ、パチンコ、カラオケはすべて縁なしといった生活だったと書いている。村山富市氏も自身の清貧生活を書いていたが、清く、正しく、逞しく生きられたのだなぁと感心した。
石橋政嗣 いしばし まさし | |
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日本社会党中央本部機関紙局『月刊社会党』第127号(1967)より | |
生年月日 | 1924年10月6日 |
出生地 | 日本統治下台湾、台北州宜蘭郡宜蘭街 (現・ 台湾宜蘭県) |
没年月日 | 2019年12月9日(95歳没) |
死没地 | 日本、福岡県福岡市 |
出身校 | 台北高等商業学校(現・台湾大学) |
前職 | 佐世保地区労働組合会議議長 |
所属政党 | (日本社会党→) (左派社会党→) 日本社会党 |
称号 | 衆議院永年在職議員 |
選挙区 | 旧長崎2区 |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1955年2月27日 - 1990年1月24日 |
第10代日本社会党中央執行委員長 | |
在任期間 | 1983年9月7日 - 1986年9月8日 |
石橋 政嗣(いしばし まさし、1924年〈大正13年〉10月6日 - 2019年〈令和元年〉12月9日)は、日本の政治家。