浅沼稲次郎 あさぬま いねじろう

政治

掲載時肩書社会党書記長
掲載期間1956/04/24〜1956/05/02
出身地東京都
生年月日1898/12/27
掲載回数9 回
執筆時年齢58 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他
入社社会運動
配偶者記載なし
主な仕事反軍事研究団事件、社会主義(留置)、3時間天下の書記長、無産政党、検束回数レコード、 日本大衆党→日本社会党
恩師・恩人
人脈三宅正一、片山哲(弁護)、河上丈太郎、松本治一郎、西尾末広、徳川夢声
備考三宅島出身
論評

(明治31年)12月27日- 1960年(昭和35年)10月12日)は東京三宅島生まれ。政治家。日本社会党書記長、委員長を歴任。巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「演説百姓」「人間機関車」の異名を取り、また「ヌマさん」の愛称で親しまれた。浅沼は東京都江東区白河町の同潤会アパートに30年間住み、家にいるときは団地の片隅の猫の額ほどの狭い庭で植木いじりをよくした。特に東京下町は絶大であり地元の労働者の集まる食堂で浅沼の悪口を言った新聞記者がその場から叩き出されたという口碑がある。昭和天皇、皇室を敬愛していたことでも知られ、雑談中に昭和天皇を揶揄する発言をした新聞記者をいきなり怒鳴りつけたこともあるという。党外でも調整役として手腕を発揮し、右派ながらも社共共闘を積極的に進めた。日本共産党関係者・支持者の間でも信頼が厚く、社共両党の関係を良好なものにしていた。しかし日比谷公会堂において1960年10月12日に行なわれた3党首立会演説会の演説中に反共主義者・山口二矢(17歳)に刺され死亡している(浅沼稲次郎暗殺事件)。

1.関東大震災と監獄経験
大正12年(1923)、反軍事研究団事件のあと、わたくしは卒業を待たずに早稲田を飛び出し、社会運動の戦列に加わった。この年の9月1日大震災があり、友人から「お前ねらわれているぞ、気をつけろ」注意してもらった。社会主義者と朝鮮人に対する弾圧のことである。大学近くにあった農民運動社に泊ったが、夜中の1時過ぎ、窓や台所から乱入した25,6名の兵隊によって揺り起こされた。そして銃剣で、抵抗すれば撃つと脅かされながら、同宿の者数名と共に戸山ケ原騎兵聯隊の営倉にぶち込まれた。真っ暗で妙な臭いだけが鼻につく営倉で落ち着けなかった。翌日係員から住所、氏名を聞かれ、市ヶ谷監獄にぶち込まれた。当時市ヶ谷には堺利彦、徳田球一、小岩井浄など第一次共産党事件関係者などもいて警戒は厳重、看守の態度もきわめて非人間的であった。
 夜9時ごろ看守の詰め所に呼び出され、反抗的な態度をとると殴る、蹴る、打つという始末。おまけに監房に帰された時は革手錠で後手にくくりあげられていた。革手錠は1週間ぐらいだったが、苦しくてろくろく寝ることも食うこともできなかった。

2.演説百姓の愛称を受ける
「沼は演説百姓よ 汚れた服にボロカバン 今日は本所の公会堂 明日は京都の辻の寺」
これは大正末期の日労党結党当時、友人の田所輝明君が、なりふり構わず全国をブチ歩く私の姿をうたったものだ。以来演説百姓は私の異名となり、今では演説書記長で通っている。私は演説百姓の異名をムシロ歓迎した。無産階級開放のため、黙々と働く社会主義者を、勤勉そのもののごとく大地に取り組む農民の姿にナゾらえたもので、私はかくあらねばならぬと念じた。
 私は全国をブチ歩き、ラジオにもよく出るので私のガラガラ声が大衆の周知のものとなった。ラジオや寄席の声帯模写にもしばしば登場して苦笑していた。徳川夢声氏と対談したとき「あれは沼さんの声だと誰でも分かるようになれば大したものだ」とほめられたことがある。

3.社会党、誕生す
昭和20年(1945)11月2日、全国三千の同志を集め、東京の日比谷公会堂で結党大会を開いた。私はこのとき司会者を勤めたが、会場を見渡すといずれも軍服、軍靴のみすぼらしい恰好ながら同じ理想と目的のため、これほど多くの人々が全国から馳せ参じてくれたかと思うと嬉しくてたまらなかった。翌21年の総選挙で98名、22年の総選挙で143名を獲得、第一党となって、当時の民主党、国民協同党と協力して片山内閣をつくった。その時の特別国会では、衆院議長も第一党たる社会党がとることに話し合いがつき、松岡駒吉氏が議長に選ばれ、ついで首班指名では松岡議長から「片山哲君が内閣総理大臣に指名されました」と宣告した。私はいまこそ30年の夢が実現したのだと思い、涙がポロポロこぼれるのだった。

浅沼 稲次郎
あさぬま いねじろう
『経済時代』1960年11月号より
生年月日 1898年12月27日
出生地 日本の旗 日本東京府神着村
(現東京都三宅村
没年月日 (1960-10-12) 1960年10月12日(61歳没)
死没地 日本の旗 日本東京都千代田区日比谷公会堂
出身校 早稲田大学
前職 関東木材労組・東京自由労組・東京製糖労組組合長
所属政党農民労働党→)
日本労農党→)
社会大衆党→)
無所属→)
日本社会党→)
右派社会党→)
日本社会党
配偶者 妻・浅沼享子

選挙区 (東京都第4選挙区→)
(東京都第3選挙区→)
(東京第1選挙区→)
旧東京1区
当選回数 9回
在任期間 1936年2月21日 - 1942年4月30日
1946年4月11日 - 1960年10月12日

東京都の旗 第3代 東京都議会副議長
在任期間 1945年10月 - 1946年4月

選挙区 深川区選挙区
当選回数 1回
在任期間 1943年9月13日 - 1946年4月10日

在任期間 1960年3月23日 - 1960年10月12日

その他の職歴
初代 農民労働党書記長
1925年12月1日 - 12月1日(即日解散))
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浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1898年(明治31年)12月27日[1] - 1960年(昭和35年)10月12日)は、日本政治家

東京府神着村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任。巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「演説百姓[注釈 1][2][3]」「人間機関車」の異名を取り、また「ヌマさん」の愛称で親しまれた[4]。しかし日比谷公会堂において1960年10月12日(水曜日)に行なわれた3党首立会演説会の演説中に右翼活動家の山口二矢(17歳)に刺され死亡している(浅沼稲次郎暗殺事件)。

  1. ^ 衆議院『第七十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年、2頁。
  2. ^ 浅沼稲次郎『私の履歴書』:新字新仮名 - 青空文庫
  3. ^ 田所輝明『無産党十字街』先進社、1932年、 p. 69.
  4. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 24頁。


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