掲載時肩書 | 鹿島名誉会長 |
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掲載期間 | 2002/07/01〜2002/07/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1925/11/05 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 成蹊高 |
入社 | 運輸省 |
配偶者 | 鹿島守之助二女 |
主な仕事 | 国鉄現場見習、助役、鹿島入社、経営企画、原発建設、JC会長、霞ヶ関、デミング賞、国技館、日商会頭 |
恩師・恩人 | 鹿島守之助、木川田一隆 |
人脈 | 芥川也寸志、三田勝茂、山本卓眞、稲葉清右衛門、牧田与一郎、土光敏夫、曽野綾子、河合良一、栃錦、五島昇 |
備考 | 算数世界一、鹿島の婿取り作戦:長女(渥美健夫)、長男・昭一、三女(平泉渉), |
1925年 ( 大正 14年) 11月5日 – 2005年 ( 平成 17年) 12月14日 )は東京生まれ。 実業家 。 運輸省(現・国土交通省)に入省。日本国有鉄道に勤務中、鹿島の第4代社長・鹿島守之助の目に留まった。これを契機に鹿島家との交流を深めた六郎は1953年(昭和28年)、守之助の二女で画家のヨシ子と結婚。守之助から鹿島への入社を打診され、六郎はこれを受諾し、1955年(昭和30年)に国鉄を退社。取締役として鹿島に入社した。鹿島 名誉会長、 日本商工会議所 第15代会頭。父は 石川一郎 初代 経団連 会長。その他の役職として日本卓球協会第7代名誉会長、日本を守る国民会議顧問、日本会議顧問を務めた。
1.入婿父母と娘
鹿島の中興の祖、鹿島守之助さん、つまり私の岳父と初めて会ったのは、国鉄本社で式典があった時だ。感謝状を受け取る姿を見かけた程度だった。私は建設会社にも興味がなかった。その後、会っていると軽いカルチャーショックを受けた。守之助さんが外交官出身なので会話は政治、歴史、美術など豊富で文化的な香りが高い。守之助さんははっきり物事をいう。近寄りがたいという人もいたが、私は会話を楽しんだ。
母親の卯女(うめ)さんは社交的で思いやりのある方だった。養子の夫、守之助さんにかいがいしく仕えていた。守之助さんが仕事に出かける時だ。卯女さんは着物姿にかかわらず、玄関のたたきにサッと降りてしゃがみ、守之助さんに一足ずつ靴を履かせ、紐を結んでいた。自然な姿だった。この母親に育てられた娘なら大丈夫だと思った。ヨシ子も芯は強い。周りの人に細やかな配慮をし、家庭内のことではすべて夫を立てるタイプの温かい女性だ。
私と付き合い始めた20歳過ぎの頃、最年少で日展に入選し、私も上野の都立美術館に行った。絵心のない私でも、本格的なものだということは理解できた。ただ、絵ばかり描いているので心配になり、「ご飯は炊けますか」と聞いて、小さく笑われてしまった。
2.鹿島家の婿取り作戦
学者で政治家を志していた守之助さんは営業が好きでないし、技術は分からない。そこで入婿岳父の精一さんのように婿取り作戦に出た。
長女の伊都子さんは経済安定本部にいた渥美健夫さん、二女のヨシ子は私とめあわせた。ヨシ子の下が鹿島昭一君で、東大と米国ハーバード大学大学院で建築を学んだ。渥美さんが経理・事務、私が土木技術と営業、昭一君が建築技術の担当。三本柱で会社を支えていってもらおうという思惑だ。
三女の三枝子さんは外務省にいた平泉渉君と結婚した。後に代議士になる。守之助さんが自ら断念した外交官への思いが平泉君を選んだのかもしれない。縁組で人材を取り組むのは、一つの筋が通っている。
3.超高層ビル時代の幕開け
1963年は日本建築界の大転換の年だった。建築基本法が改正され、31mに抑えていた建物の高さ制限を撤廃、容積率(敷地面積に対する延床面積の割合)規制に切り替わった。この規制緩和で、日本でも超高層ビルの建設が可能になったのだ。霞が関に大きなビルを建てようとしていた三井不動産は超高層ビル計画に取り組むことになり、鹿島に協力を求めてきた。
超高層ビルの建設では、ゼネコン(総合建設会社)は交響楽団の指揮者のようなものだ。何千種類もの作業を無駄なく手順よく進めるには列車のダイヤを組むような緻密な計画を立てなければならない。構造計算と共にコンピュータの技術があったからこそ可能だった。鉄骨の耐火被覆、風圧に耐えるガラス、高速エレベーターなどの開発が一気に進んだ。36階建ての日本初の超高層ビルの建設が日本産業界の技術力向上もうながした。
68年に完成した霞が関ビルに続く第二号が70年にできた浜松町の世界貿易センタービルだ。財界人が発起人となって計画した。地上40階の建設は決まったが、地震を怖がってオフィスの入居希望がない。そこに川崎重工の砂野仁社長が「鉄骨工事をやらせてほしい」と申し入れてこられた。私は「実はテナントが埋まらなくて困っている」と水を向けた。川崎グループは各社が入居するなど全面的に協力してくれた。
4.両国・国技館の建設
1978年2月、渥美社長の後を継いで社長になった。トップが決断しないと、進まないプロジェクトは多い。典型の一つが両国の国技館だろう。旧両国国技館はヨーロッパ風の美しい外観で東京名物だった。老朽化してきたので、両国に再び国技館を造ろうという声が高まってきた。
日本相撲協会で推進していたのが春日野理事長(元横綱栃錦)。私と同年で、大正生まれの集まり「大正会」などで親しかった。両国駅の貨物取扱所跡地が格好の場所だというので、二人で国鉄総裁の高木文雄さんを訪ねた。「国民的な要望だから払い下げていただきたい」と訴え、実現した経緯がある。
建設の発注は別だ。約40社が計画を提出し、学者らの厳しい審査の結果、当社が残った。注文が出た。
協会の理事会議室に呼び出され、巨漢のみなさんに質問をぶつけられる。「社長のあなたはどういう心構えで受けるのか」。私は「国民の願望である国技館をやらせていただくのは名誉であり、誠心誠意、採算を度外視してやります」などと答えた。「それだけか」。とうとう二子山親方(元横綱若乃花)が「春日野さんは失敗したら腹を切ると言っている。あなたはどうだ」と迫る。私は「一緒に腹を切ります」と言った。
建築もいろいろ工夫した。東京の場所は年間45日なので、相撲以外にも利用できるように提案した。5000人が歌う「第九」コンサートが開けるように、吊り屋根と土俵を自動昇降で格納し、桟敷も引っ込め、音響効果も高めた。二階桟敷の下には支度部屋のほか大きな診療所やちびっ子相撲の土俵などを設けた。名物の焼き鳥を1日10万本つくる能力がある「焼き鳥焼室」には、独自の焼き機や排煙システムを考案して備えた。下町にあることから、災害時の支援基地にもなる。食糧備蓄庫があり、非常時には雨水を浄化して飲料水としても使える。
着工という段になって、春日野、二子山両親方が私を訪ねて来られた。「工事費を負けて欲しい」。「相当節約しているので無理です」と答える。あの栃若が揃って「相撲は相手を負かすのが商売だからまけてくれ。石川さんは国家的な仕事だから損益は度外視すると言ったはずだ」と迫る。考えた末、損を覚悟で値切りを受けた。新国技館は85年1月に完成、評判を呼んだ。