掲載時肩書 | 日本鋼管社長 |
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掲載期間 | 1958/04/27〜1958/05/17 |
出身地 | 茨城県稲敷 |
生年月日 | 1887/07/25 |
掲載回数 | 18 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 四高 |
入社 | 太陽生命 |
配偶者 | 縁戚娘 |
主な仕事 | 日本鋼管、川崎疑獄(独房110日)、満州、中国石炭調査、総務部長、社長、会長 |
恩師・恩人 | 由水米次郎、白石元治郎 (渋沢右腕) |
人脈 | 山田昌作(四高北電)、神田外茂夫(四高関汽)、新渡戸稲造先生、大川平三郎、中島慶次 |
備考 | 釣り、人生観を語る |
(明治20(1887)年7月25日―昭和49(1974)年2月17日)茨城県生まれ。大正5年太陽生命に入るが、社内の封建ムードに反発して退社、7年日本鋼管に転じ総務部長、勤労部長を経て昭和17年取締役、常務から22年社長となった。38年会長、41年相談役。労務対策の専門家で、産業合理化委員会鉄鋼部会長として鉄鋼合理化を指導した。また鉄鋼使節団長としてカナダ訪問、アンデス諸国貿易使節団長、日加実業人会議日本代表団長などで活躍した。
1.生活習慣の修業
龍ヶ崎中学3年のとき、新しく東大出の伊藤先生が赴任され、英語と漢文を教えてくれたが、先生は越後の人でお寺の住持ちであった。それが大学を出て教育家を志したわけだが、龍ヶ崎に来て最初に思い立ったことは、寮生活を通して徹底的に子弟の教育に打ち込んでみたいという理想であった。そこで「時習寮」と名付け、自ら舎監となって十数名の生徒を預かった。私のやんちゃに手を焼いていたオヤジは、これ幸いとばかり、私をその時習寮に入れたのである。伊藤先生は法門の出だけに、寮生のしつけは厳しかった。
時習寮の生活はすべて当番制になっていて、私は松浦という学友と組んで先生の部屋の掃除やその他身辺の世話係を仰せつかった。箒や雑巾の使い方からハタキのかけかた、はては膳の運び方、給仕の仕方など、伊藤先生はいちいち手をとって教えてくれた。当番制で一番困ったのは便所掃除で、この役目にはさすがの私も辟易した。私は今でこそ行儀が悪くなったが、この時習寮時代は作法をわきまえる名小姓とうたわれたものである。念のため・・・。
2.白石元治郎さんの人柄と持論
私を日本鋼管に招いてくれた白石さんは、越後の産だが、早くから福島県の士族で白石家に養子にきていた。中学は開成だったと思うが、家がひどく貧しかったので苦学力行の生活を続けたようである。東大に進んでからはボートの選手などをやられたが、まじめな学生生活をおくられたようだ。
白石さんは決して深酒をしなかった。中学時代の深酒の失敗があったのでそれを教訓にしていた。また、歌舞音曲などにまるっきり理解もなく、同じ仲間でも、飲むは歌うはの粋人だった大川平三郎さんとは全く対照的な人だった。白石、大川の両氏が相知るようになったのは、白石さんが東洋汽船に入っていたころにさかのぼる。つまり、そのころ白石さんは個人的に渋沢栄一氏の指導を受けたが、その渋沢さんと大川さんが親類関係だったところから、二人はいつしか肝胆相照らす仲となった。二人はいつも仕事の面でも一緒で、うらやましいほど睦まじい兄弟仲であった。
白石さんの主義は“ロングラン”ということだった。あくせくするな、ロングランで行け!とよくいわれた。人生行路を走るには長距離選手でなければならぬ。そのためには、まず体を大事にしろ。長生きしたものが最後の勝利を得る・・・というのが白石さんの持論であったが、私は大いに教えられたものである。
3.戦後は労務問題で悩む
昭和17年(1942)12月、取締役総務部長となったが、翌18年1月、勤労部長も兼務した。やがて終戦となり、次にやってきたのが例のトップ役員のパージである。その影響で私が推されて社長となった。
さて、戦後で一番手こずったのは、朝鮮人問題と労働問題だった。戦時中、大抵の会社が徴用で朝鮮人を使っていたが、それが日本の敗戦と同時に、後始末について騒ぎ出したのである。とどのつまりはGHQに頼んで裁判してもらったりして格好をつけたが、もう一つの労働問題には少なからず悩まされた。「自由」はまことに結構だが、これもGHQの肝いりで出来た労働協約が結ばれ、そこで労組が急に膨れ上がった。「要求」「要求」で、社長とか工場長とかは、しょっちゅうかん詰めにされたり、吊るし上げられになったりした。いっぺん部屋に入ったら最後、金輪際出られなくなってしまうのだからひどいものである。