掲載時肩書 | 富士製鉄社長 |
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掲載期間 | 1969/01/01〜1969/02/02 |
出身地 | 島根県 |
生年月日 | 1900/07/15 |
掲載回数 | 33 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 六高 柔道一筋 |
入社 | 浅野物産 |
配偶者 | 大塚栄吉娘 |
主な仕事 | 富士製鋼、日本製鉄八幡製鉄所、経済安定本部、日本製鉄分離(八幡・富士)、新日鉄、日商会頭 |
恩師・恩人 | 鹿野清次、渋澤正雄、渡辺義介 |
人脈 | 長男護(渋沢正雄同期)、桜田武、松永安左衛門、大谷米太郎、石田礼助、稲山嘉寛、郷司浩平、高碕達之助 |
備考 | 母:授業参観に週2、3回 |
1900年7月15日 – 1984年5月4日)は島根県生まれ。実業家。新日本製鐵会長、経済同友会代表幹事、日本商工会議所会頭などを歴任した、戦後日本を代表する経済人の一人。財界四天王の一人といわれ、”戦後の財界のドン”ともいわれた。兄は、政治家の永野護(衆議院議員、参議院議員)。弟に、永野俊雄(五洋建設会長)、伍堂輝雄(日本航空会長)、永野鎮雄(参議院議員)、永野治(石川島播磨重工会長)がいる。護の子・永野厳雄は広島県知事、永野健は三菱マテリアル社長及び日経連会長になるなど、永野六兄弟、永野一家などと呼ばれ、閨閥の華やかさでは随一 といわれた。
1.私と柔道
私は六高の3年間、そして東大にはいってからも卒業後も柔道を続けた。私の青春は、あの汗臭い柔道着の中にあったような気がする。六高の柔道仲間とは、仲間で作っている「六華会」を通じて今も懇意にしている。その仲間の一人に桜田武君(日清紡会長)がいるが、彼は私と同じ広島高師付属中学の2年後輩で、私が六高在学中に、彼を六高に勧誘した。彼は柔道部にも入ってくれた。
昔の仲間といえば、練習に励んだ日々、試合の日の思い出など、話は尽きない。私が寒げいこ後の鏡開きで汁粉をどんぶりで17杯喰い、あと一杯で新記録までいった話など、そんな時に出る。あの時はあとで太田胃散を2かん飲み、次の日になっても腹は一向に減らず、菜っ葉の漬物だけを3食食べたのだった。
2.松永安左エ門氏の茶室で大失態
松永さんは財界では茶の第一人者をもって任じている。あるとき私ども夫婦はその松永さんの茶室へ招じられた。私は当時、茶の心得は皆無。女房のマネをしていれば何とかなるだろうと出掛けて行った。ところがこのとき、客は私どもだけだったので私が正客になった。朝茶ということで濃いお茶の回し飲みをするのだが、私がまず飲まねばならぬ。どうしたものかとかしこまって座っていると、松永さんは懐紙を出して私の前に置いた。これは菓子をつまむ為のもので、自分で出さなければならないのだが、私が出さないものだから、松永さんが気を利かせて出してくれたのだ。
ところが風邪気味で鼻水が出て困っていた私は、これはきっと回し飲みするのに汚いから鼻をかめという意味だと解釈し、懐紙を取ってチューンとやってしまった。天下の茶人は、さすがに口にこそ出さなかったけれど、瞬間、びっくりされたことだろう。今でも冷や汗がでそうだ。
3.日本製鉄分離で富士製鉄に
日本製鉄は巨大事業であるから解体せよとGHQから指令・通達されたのは、昭和23年(1948)12月16日だった。その内容は、①日鉄は「八幡」と「北日本」(室蘭、釜石富士の合併)の2つの分離会社を新設して解散。②広畑は賠償が解除された場合、「八幡」に出資または譲渡することは許されない。ただし、「北日本」に譲渡することは許される・・・というもの。つまり日鉄を二分せよというのである。いろいろあったが、
結局、「八幡」は日鉄社長の三鬼隆さんが、新しく合併してできる「北日本」(仮称)は私が引き受けることになった。しかし、広畑製鉄所が当時最新機能を持つ代表的な工場であったため、帰属先を高碕達之助氏や関西の製鉄3社(川鉄、住友、神戸)、政府筋から外貨獲得のため合弁事業に、との難問があった。
私は、この広畑が必要である旨、高碕達之助氏と関西製鉄3社に赴き、誠意を込めて説明すると納得してくれた。ところが、吉田首相は頑固なことでは音に聞こえている。一度しくじればそれきりになってしまう。
そこで、然るべき人を通ずるよりないと思い、私は六高時代の柔道仲間だった日清紡の桜田武君を通じて、宮嶋清次郎氏(当時日清紡会長、工業倶楽部理事長)に、吉田さんに話していただくよう依頼した。宮嶋さんは当時、週に一度の朝食会で、吉田さんに経済問題を話されており、吉田さんの経済顧問のような立場にあった。これが私には幸運となった。
ある朝、宮嶋さんは吉田さんに次のように話されたという。「経済界の事情というものには長い歴史とか経緯というものがある。また経済人というものは、常日頃どうすれば会社が良くなるかを考えているものだ。そう簡単に、ただ外貨を獲得すればいいということではなしに、もっと慎重に判断する必要があると思います」。
宮嶋さんが静かに淡々と話されるのを吉田さんはじっと聞いておられた由だが、いいとも悪いとも言わない。と、そのときである。たまたま脇で朝食会の談話メモをとっていた佐藤栄作氏(現首相)が「総理、それはやはり宮嶋さんのおっしゃる通り、慎重にしなければいけません」と声をかけた。その一言で、吉田さんは「うん、そうしよう」と思わずうなずいたというのである。
こうして昭和25年(1950)4月、富士製鉄は発足し、私は社長に就任した。このとき49歳。資本金4億円、従業員1万8千人、工場は広畑、室蘭、釜石、それに私の古巣・富士製鋼所(現川崎工場)の4か所。社名は最初「北日本製鉄」が冠せられたが、関西の広畑が加わったのに「北日本」ではおかしいので、日本を代表する富士山から「富士」をいただくことにした。
永野 重雄(ながの しげお、1900年7月15日 - 1984年5月4日[1])は、日本の実業家。新日本製鐵会長・経済同友会代表幹事・日本商工会議所会頭などを歴任した、戦後日本を代表する経済人の一人[2][3][4][5]。財界四天王の一人といわれ[6][7][8]、"戦後の財界のドン"ともいわれた[9][10]。正三位勲一等旭日桐花大綬章。広島市名誉市民[11]。島根県松江市生まれ、広島県広島市南区出汐育ち。