掲載時肩書 | 舞踊家 |
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掲載期間 | 1977/02/01〜1977/02/25 |
出身地 | 徳島県 |
生年月日 | 1903/02/04 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 大和屋芸妓学校 |
入社 | 大和屋 |
配偶者 | 2度離婚 |
主な仕事 | 山村流→武原流(家元)、大阪→東京 →茶屋→新橋芸者、奉納舞 |
恩師・恩人 | 藤間勘十郎 |
人脈 | 藤間勘十郎、西川鯉三郎、尾上菊之丞 、長谷川一夫夫人、高浜虚子、なだ万 |
備考 | 上方舞 (地唄舞) |
1903年(明治36年)2月4日 – 1998年(平成10年)2月5日)徳島生まれ。
昭和期に活躍した上方舞の日本舞踊家である。
自ら工夫した豪華な衣装も話題となり、その美しく気品に満ちた舞姿は「動く錦絵」と言われた。特に男に捨てられた寂しい女心を舞う地唄『雪』ははんの代表作となった。
流派に属さず、また自ら流派を立て弟子を取ることもなく個人舞踊家としての身を貫いた。晩年には花柳寿々紫、藤村志保、神崎えんらを膝下に置き、薫陶を与えた。 俳句と文章を高浜虚子に学び、俳号はん女。虚子が名付けた六本木の料亭「はん居」を1982年まで30年間経営した。
1.上方舞とは
上方に起こり発達した舞の総称である。上方舞は金剛流、観世流の能の舞を地唄などに柔らかくくずして演じたもので、いわゆる本行の舞が基本となる。従って跳躍味が少なく静かに座敷で舞うところから関東の「おどり」に対して「舞」というのもここからきている。やがて上方舞は京阪歌舞伎にもとり入れられ、更に新しく作曲された地唄や古典、上方端唄などでも舞うようになった。地唄を伴奏とするものを地唄舞ともいい、これも上方舞の中に含まれるが山村流、棋茂都流が連綿と続いている。同じ上方舞でも京都は別で「京舞」と呼ばれている。これは祇園で発達し家元の井上流は現在も続いている。
2.武原流
私の舞は山村流から発している。舞姿については浮世絵と文楽の人形から学ぶことが多かった。柳の帯を長くたらしたり、勝山のかつらを、春信や歌麿の浮世絵からヒントを得たものである。また、若いころから大阪でよく文楽へ通った。特に人形の吉田文五郎さんには心から傾倒してきかいあるごと文楽座に通いつめた。昔の山村流の舞は身体をためて深く腰を下ろし、はうようにして舞ったものだ。けいこの時は思い切り腰を折るので、終わった後は痛くて歩くのもつらいほどである。
3.むかしの阿波踊り
現在では全国的に有名で、毎年8月15日のお盆になると徳島には何10万人の観光客が訪れ、東京や大阪からも地元に来られて踊られるため徳島の大きな観光資源になっているらしい。しかしこれは戦後のことで、昔はもっとローカル色豊かな、ひなびた楽しさがあった。
踊りも現在のように複雑ではなく、手だけサラサラ動かしていた。太鼓やドラもたたかず、三味線だけにのって踊ったものだ。遠くの方から三味線の音が聞こえると、そのうち15,16の娘さんが5,6人、友禅の着物に黒繻子の帯を締め、赤ちりめんの肌ぬぎ、黒のぬり下駄におしりはしょりといういでたちでグリーンの紗の市女傘をかぶって三味線を弾きながらこちらへ流してくる。そのあとを親たちが大きなうちわで扇ぎながらついてくる。阿波では女の子は子供のころから三味線を習わされるので、三味線のお師匠さんも浴衣にあみ笠姿であとからついてくる。
一方、芸者衆は黒襟のついた色抜きチリメンの友禅にあみ笠をかぶり10人、20人ぐらいずつ一団となって流してくる。また、新町川を文楽の連中が三味線を弾いて船で流すグループもあり、それはのんびりした風物でした。
4.大和屋の芸妓学校の授業
朝8時に起き、顔を洗い食事を済ませると、すぐ「集まれい」という校長(大和屋祐三郎:にいちゃん)の軍隊調の号令がかかり、私たちは2階の広場へ集合する。私たちは広間の棚に置いてある太鼓をもって、にいちゃんと望月先生の前に並んで稽古をするが、にいちゃんは太鼓の名取でありなかなかてきびしい。やがて終わると今度はご隠居はん(山村千代)の上方舞があり、昼食後は沢田先生の狂言がはじまり、そのあとが長唄、清元、おはやしと続く。このほか随時に大和屋の向かい側の吉村ゆうさんにところへもけいこに通うことになっている。温習会がある時は、検番で先代花柳寿輔(寿応)、若柳吉蔵先生にもけいこをしてもらう状態でした。
5.東京で地唄舞を普及する・・「武原はん舞の会」
昭和27年12月2日、藤間勘十郎先生、西川鯉三郎先生、初代尾上菊之丞先生をはじめ豪華な先生方のご協力で実現した。地方も富崎春昇、清元延寿太夫、栄寿郎、芳村伊十郎先生の応援で当日のプログラムが豪勢そのものでした。表紙は梅原龍三郎先生、下絵を安井曽太郎先生にお願いし、高浜虚子、久保田万太郎両先生が俳句を載せてくださった。
衣装もすべて金糸銀糸をあしらった当時として超豪華なものだけに、そうなるとこれに釣り合う舞扇が欲しくなり、一本は小林古径先生、もう一本は横山大観先生にご無理をお願いした。
出し物の選定も慎重を期した。諸先生とも相談の上、一番目は富崎春昇先生の地唄で私が「松の寿」を舞い、二番目は西川先生の「北州」(延寿太夫)、続いて菊之丞先生の「八島」(荻江)、次が私の「師宣」(大和楽)、そして勘十郎先生の「昔話」(春昇)、最後は「巴」(伊十郎、延寿太夫先生)で私の巴御前に菊之丞先生が僧を付き合ってくださった。大きな感謝あるのみであった。