掲載時肩書 | 画家・芸術院会員 |
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掲載期間 | 1977/10/14〜1977/11/09 |
出身地 | 島根県 |
生年月日 | 1904/08/05 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 東京美術 |
入社 | 美大研究科 |
配偶者 | 弁護士娘 |
主な仕事 | 帝展1・2回特選、法隆寺金堂模写、創造美術入会・退会、人物像(芸妓、俳優、政治家、女優)、新宮殿正殿、 |
恩師・恩人 | 松岡映丘教授、 湯浅温医師 |
人脈 | 田崎勇三、日野原重明、大塚敬節、東山魁夷(同期)、安田靫彦、山本丘人・上村松篁(創造美術)、山口篷春、福田平八郎 |
備考 | 祖父母が両親、健康マニア、冷水浴、 |
1904年8月5日 – 1991年3月25日)は島根県生まれ。日本画家、日本芸術院会員、1931年東京美術学校日本画科卒、松岡映丘に師事。1937年新文展で特選。1940-1950年法隆寺金堂壁画模写に従事。戦後、日展に出品。1948年創造美術結成に参加するが、後に脱退して官展に戻る。
1.通信教育で「日本画講義録」を
私は中学当時から絵の通信教育を受けていた。地方に住む画家や画学徒のための講義録は、中学生の私にはわかりづらいところも多かったが、私は一生懸命になって読んだ。読み終わると綴じておいた。一年もすると一冊の立派な本になる仕組みだった。主な講師と演題を次にあげてみよう。
「画法一斑」(東京美術学校教授 結城素明)、「墨画の研究」(同、川合玉堂)、「歴史風俗画講義」(同、吉川霊華)、「新浮世絵講義」(同、鏑木清方)、「色彩に関する講話」(同、松岡映丘)、「古画の研究」(安田靫彦)、「山水画講話」(寺崎広業)、「図案講義」(杉浦非水)。まことにそうそうたる顔ぶれだった。これを読めば一通り日本画のあらましがわかるようになっていた。私は大いに発奮し、日本画が終わると洋画もとった。初めてみるピカソやマチスに感心した。その中学の絵の集大成が「ガラシャ夫人」という作品になった。
2.日本美術学校の5年間授業
美校の5年間は絵画に関するあらゆる基礎を教わった。実技で言えば、1年の時は植物写生。2年生になると風景写生。ここでいう写生とはありのまま、物そのものを描くことである。こうした主観を入れない基礎的なトレーニングは、迂遠なようではあったけれど私には大変貴重なことだったと思う。結局、私が取り組もうと考えていた人物画の授業はようやく3年になってからだった。やっと待望のモデルを使ってのデッサンが始まった。一見悠長な授業ペースに我慢できずに学校を去った同級生もいた。授業の実際も、先生が一人一人に手を取って指導することは決してない。全くの放任主義で、絵の具の溶き方一つ教えてもらえなかった。自然に習え、身につけよ、ということだったのだろう。とはいえ、講義録という活字だけを通してやや頭でっかちだった私には、学校で身をもって学んだことは当然のことながら大きかった。
実技のほかに教養科目としては、西洋美術史、東洋美術史、英語、フランス語、文様史、美学、解剖学、体操(軍事教練)、剣道などといった授業があった。講義は朝9時ごろから始まったと思う。
3.人物画に興味を覚える
私は中学時代からずっと人物を絵の対象に選んできた。私が、風景画や花鳥画よりも人物画に惹かれるようになったのは、対象が決まっているから、花鳥や風景ほど解釈に自由がない。人物にはそれぞれの生活感情がある。これも花鳥、風景にはないものだ。肖像画は、単なる人物画以上にモデルの生活感情の個性的な表現が大切になる。描き手の主観を通してモデルの個性を引き出さねばならない。そういう制約の多い対象をいかに画面に表現するかという点において私は強い興味を覚えるのである。ともすれば安易に流れがちなフォルムの勉強と色彩の研究が肖像画のポイントだと思う。写実的なものとは次元の違う画面構成を私は工夫してみたいと思う。肖像画はある程度モデルに似ることが不可欠である。広く万人が見て対象を彷彿させるだけの説得力ある描写は必要であり、そこに肖像画の難しさ、制約があると思う。それは同時に画家としての腕のふるいがいにも通ずるのである。
私は「まり千代像」を契機として、その後も多くの肖像画を描いてきた。翌昭和30年(1955)の成駒屋を描いた「六世歌右衛門」、33年の松竹大谷社長をモデルにした「大谷竹次郎像」、40年には河野一郎先生を「河野先生像」として制作した。42年には司葉子さんをモデルに「女優」、48年、貴ノ花関を描いた「関取」、そして51年には三笠宮殿下にモデルをお願いして「球」と題する絵を描いた。今後も単なる写実の次元を超えた、私なりの人物画、肖像画を工夫したいと思う。