掲載時肩書 | 京大名誉教授 |
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掲載期間 | 1998/10/01〜1998/10/31 |
出身地 | 福岡県 |
生年月日 | 1919/06/01 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 大学副手 |
配偶者 | 医者娘 |
主な仕事 | 敦煌、バクトリア、バーミヤーン、スワー ト、ペシャワール調査(シルクロードの伝搬と日本文化の源流)、金糸、パルミラ遺跡 |
恩師・恩人 | 梅原末治 水野清一 |
人脈 | 円城寺次郎、井上靖、司馬遼太郎、陳舜臣、松本清張、山下元利、小松左京、江上波夫、石毛直道 |
備考 | 三角縁 神獣鏡 |
1919年6月1日 – 2015年4月2日)は福岡県生まれ。考古学者。1957年京都大学文学部助教授、同年より敦煌を調査。1959年以降、京都大学学術調査隊に参加してインド、アフガニスタン、パキスタンなどの仏教遺跡を調査。1975年教授。1983年定年退官、泉屋博古館館長、奈良県立橿原考古学研究所長。シルクロード学研究センター所長、京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長。京都大学名誉教授。
1.初めての漆器発掘
梅原末治教授にお供して昭和17年〈1942〉冬、満州(現中国東北部)と朝鮮半島を約1か月旅行した。先生とは初めての長旅だったが収穫の多い旅となった。中国の漢時代の漆器を初めて自らの手で取上げ、高句麗民族の壁画古墳をじかに見ることができたのだ。漢時代の漆器は平城にある古墳で取上げた。
発掘条件は厳しかった。何しろ寒く、地表は凍り付いている。松明(たいまつ)のような物で少しずつ土を溶かし、手でかき分けていった。すると、漆器の端が顔をのぞかせた。そこからは手ではなく筆の出番だ。漆器の周辺をなぞる。全体が姿を現しても、すぐに取り上げてはいけない。そのまま、しばらく晒(さら)すのがコツだ。漆器など木製品は長年、埋もれている間に水分を吸収、太陽にあてすぎると縮んだり、崩れてしまうからだ。この技術は日本が得意とする技で、フランス隊などは、仏領インドシナの漢代の墓を掘っても漆器を採取できなかった。
2.壁画多彩の敦煌に圧倒される
昭和32年〈1957〉5月12日、我々日本考古視察団5人は、敦煌に向けて北京空港を飛び立った。飛行機は旧ソ連製の18人乗りの双発機だ。山また山を越えて黄河を見下ろし、砂漠を横断し、やっと着いた。
敦煌文物研究所(現敦煌研究院)の常書鴻所長が出迎えてくれた。莫高窟は鳴沙山の崖(がけ)面に約千年の期間に、1・6kmにわたって上下4段くらいに四百数十窟が穿たれた石窟寺院だ。石窟全てに壁画が描かれ、粘土の像に彩画した塑像が飾られていた。
我々は常所長の案内で翌朝、早期の第275窟から見学を始めた。北魏時代の壁画は朱で輪郭が描かれ、唐代には針で孔(あな)をあけて輪郭をとっているものもあった。私は内容の豊富さに圧倒され、石窟の構造のスケッチに必死だった。
実質2日間の莫高窟滞在中、石窟前にあった外来用の宿舎に泊めていただいた。常所長によると、45人ほどの所員画家が壁画の模写にあたり、現状模写を基本に、復元模写、中間模写(色はそのままで欠けた部分を補う)の3種類の模写をしているとのことだった。
3.恩師・水野清一先生
先生が昭和46年〈1971〉5月25日に京大病院で亡くなった。66歳だった。先生を語る場合、中国山西省の雲崗石窟の調査報告書「雲崗石窟」(全16巻32冊)を一番に挙げねばなるまい。雲崗には断崖の全長約1kmにわたり、42の石窟がある。戦火の中国で終戦の前年まで、長広敏雄先生らと粘り強く行われた調査の集大成がこの報告書だ。
「雲崗石窟」の刊行は、敗戦後の日本とって国家的な事業だった。吉田茂内閣の鶴の一声で出版予算が確保されたと聞く。吉田首相は昭和26年(1951)8月、完成したばかりの「雲崗石窟」の第一巻を携えてサンフランシスコ講和会議に向かった。「日本は戦時中も、文化的な学術調査をしていた」ことを、吉田首相は示したかったという。
先生の「雲崗石窟」全巻刊行にかける情熱は、中国の学者をも動かした。戦後初めて中国を訪ねた32年の考古学視察団で北京に滞在中、先生に中国科学院の郭沫若院長から一包みの古紙が手渡された。先生の顔はみるみるうちに笑みで崩れた。それは雲崗石窟第18洞の実測図で、先生が中心となり戦前に5年がかりで製作した労作だった。一緒に調査した日本人の学者が終戦による混乱の中、北京まで運んだが、国外帯出が許されずに残したままになっていた。先生は郭沫若院長が30年に来日した際、実測図の所在確認を依頼し、郭院長がこれに応えたのだった。
4.シルクロードの泉屋クラブ
私は昭和58年〈1983〉4月1日に京大を退官、翌日に泉屋博古館(京都・鹿ケ谷)の館長に就任した。博古館は住友家が集めた中国の古銅器と東洋の美術工芸品を展示する施設だ。館長就任をきっかけに、旧知の人々が私を囲む会「泉屋クラブ」をつくってくれた。結成時の顔ぶれは、作家の司馬遼太郎さん、陳舜臣さん、小松左京さん、考古学者の江上波夫さん、文化人類学者の加藤九祚さん、石毛直道君、松原正毅君だ。加藤さんの出版記念会が61年3月に大阪市内であり、クラブ結成の話はこの二次会で持ち上がった。司馬さんが「ひぐっつぁんを囲んで、定期的な放談会を開こう」と話し、みんなが賛同してくれた。
クラブのメンバーにはシルクロードにぞっこんの人が多い。特に司馬さん、陳さん、江上さん、加藤さんとは、NHKが昭和54年に取材を始めた番組「シルクロード」シリーズにかかわった仲でもある。この番組でシルクロードの名が世間に広まったといってよく、私がシルクロードの研究者と一般に認められたのもこの番組によってであった。
氏は、2015年4月2日95歳で亡くなった。「履歴書」には平成10年(1998)に79歳で登場した。考古学者として、日本人では騎馬民族説を唱えた東大名誉教授の江上波夫に次いで2人目である。氏は、57年に日本人考古学者として戦後初めて中国・敦煌の石窟を視察した。また、70年から8年間、京大中央アジア学術調査隊の隊長としてアフガニスタンのバーミヤーン遺跡などの調査に当たり、玄奘三蔵が「大唐西域記」に記した東西の大石仏を含め、全石窟を調べた。日本ばかりでなく中央アジア・西アジアやシルクロードの遺跡も発掘調査し、世界的視野から東西の文化交流を解き明かそうとした考古学者だった。
氏はインド調査で英国式の発掘方法を学んだ。日本との違いは、分業システムの徹底だった。発掘は、掘って遺構のある層位(地層の時間的前後関係)を決め、図面を書いて写真を撮るという手順を踏む。日本では考古学者がすべて一人でやっていたが、インドではそれぞれの作業を専門家に任す方式だった。現在では日本でもこの方式になっている、と。
氏は京大非常勤講師時代の53年、「卑弥呼の鏡」ともされる三角縁神獣鏡が大量に出土した京都府の古墳を調査し、以後古代の鏡研究の第一人者となった。三角縁神獣鏡には卑弥呼の時代から大和王権の時代にかけてのものとがある。地域別の出土数は黒塚古墳の発掘調査の結果、奈良県が80数面で最多となり、次いで京都府、兵庫県、大阪府と続く。九州や中国地方、関東でも出土しているが畿内が圧倒的に多い。この分布状況は、前方後円墳の分布状況と通じる。これにより、三角縁神獣鏡は邪馬台国から大和王権に引き継がれた鏡であり、分布状況、出土数から考えると邪馬台国大和説を裏付ける有力な資料だと説いている。
人物情報 | |
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生誕 | 1919年6月1日 日本・福岡県田川郡添田町 |
死没 | 2015年4月2日(95歳没) 日本・京都府京都市 |
居住 | 日本 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 京都帝国大学文学部 |
学問 | |
研究分野 | 東洋考古学(シルクロード学、中国考古学) |
研究機関 | 京都大学 泉屋博古館 奈良県立橿原考古学研究所 京都府埋蔵文化財調査研究センター |
主な業績 | ガンダーラの遺跡調査 バーミヤーンの遺跡調査 パルミラの発掘調査 三角縁神獣鏡魏鏡説の提唱 邪馬台国近畿説の提唱 |
主な受賞歴 | 和歌山市文化賞(1985年) NHK放送文化賞(1989年) 京都府文化賞特別功労賞(1992年) 大同生命地域研究賞(1995年) |
樋口 隆康(ひぐち たかやす、1919年6月1日 - 2015年4月2日)は、日本の考古学者。京都大学名誉教授[1]。文学博士(京都大学・1962年)。
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