陳舜臣 ちん しゅんしん

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間2004/06/01〜2004/06/30
出身地兵庫県
生年月日1924/02/18
掲載回数29 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
大阪大学
学歴その他神港商業
入社西南アジア語研究会
配偶者父の 友人娘
主な仕事インド語、ペルシャ語、台湾帰国、台湾中学教師、2.28事件、乱歩賞、探偵作家クラブ、「実録アヘン戦争」、麒麟の会、
恩師・恩人何既明医師、吉田健一
人脈庄野潤三・司馬遼太郎(同大学)、藤沢桓夫、李登輝、江戸川乱歩、松本清張、笹沢左保、梶山季之、梅原猛、
備考両親台湾人
論評

1924年2月18日 – 2015年1月21日)は兵庫県生まれ。推理小説、歴史小説作家、歴史著述家。代表作に『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。『ルバイヤート』の翻訳でも知られる。本籍は台湾台北だったが、1973年に中華人民共和国の国籍を取得し、その後、1989年の天安門事件への批判を機に、1990年に日本国籍を取得している。1967年『阿片戦争』などから中国の歴史を題材にした作品を多く書き、日本における「中国歴史小説」ジャンルを確立し、多くの読者を持っている。

1.終戦、日本国籍から中国に
1945年8月15日に戦争は終わった。日本人は「また一からやり直しだ」だが、私の場合はやり直しだけではすまなかった。日本の植民地だった台湾の人たちは、台湾が中国に返還されるに伴って、国籍は日本から中国に変わることになった。当時私が勤めていた西南アジア語研究所は、閉鎖されるという通告を受けた。スタッフの身の振り方は、私以外は簡単であった。大阪外大の教授の兼任が多かったし、川崎直一さんは外語の言語学の講師から教授への横すべりの道があった。国立学校の教授は任官しなければならない。任官するには日本人でなければならない。外国人となった私は任官せずに済む嘱託講師の道しかない。それは今のところ極めて薄給であった。
 私にはそれ以上に重大な問題があった。台湾からやって来た何既明氏とは、これまで何度も自分たちのアイデンティティについて語り合った。だが、私はほとんど台湾のことも中国のことも知らないのである。なによりもまず台湾に帰ってみることではないかとの結論になった。

2.娘を看病しながら小説家を志す
台湾では多くの知識人が虐殺された悲惨な2.28事件を体験したが、1949年10月に神戸に戻り、許嫁と結婚した。私は神戸に帰ってから、どうしても商売はダメだから、学問に近いペン・マンとして生きようと思っていた。1957年正月に女の子が生まれたので、私もうかうかできないと思うようになった。この女の子は、生まれて間もなく風邪をひいた。この年はよくない風邪が流行したらしい。赤ん坊は鼻を詰まらせて、苦しそうである。医師は「洟(はな)が出るように手伝ってあげてください。直に赤ちゃんの鼻に口を当てて、吸い上げてやるのが一番です。一晩中、赤ちゃんの様子を見てあげるのです」と、言った。それで私たち夫婦は赤ん坊の鼻の番を、交代でつとめた。娘は鼻を吸ったあとは気持ちよさそうにしている。
 そんなときは退屈だから、本を読むのが一番良い。眠気を催してはならない。適当に面白い本で、時代小説や探偵小説を買い込んだ。―これなら、おれの方がうまく書けそうと、娘の顔を見ながらつぶやいた。

3.「賞の囚人」と揶揄
直木賞の翌年、私は「玉嶺よふたたび」と「孔雀の道」で、昭和45年(1970)度日本推理作家協会賞を受賞した。乱歩賞とあわせて、これで推理小説の三冠王などと戯評された。私は受賞に恵まれていたのか、大佛次郎賞、翻訳文化賞、NHK放送文化賞、読売文学賞、吉川英治賞、朝日賞、日本芸術院賞、井上靖文化賞、海洋文学特別賞などをいただき、ほかに兵庫県や神戸市の賞、神戸新聞平和賞、大阪芸術賞なども受けている。あまりたくさん賞をもらったせいか、ある雑誌の人物評に「賞の囚人」と書かれた。
 どうも賞をもらいたくて、それで懸命になっている人間と暗にそしっている感じで、不愉快であった。乱歩賞は応募だから確かに貰いたかったが、与えるのは会ったこともない5人の審査員の先生である。他は直木賞のように候補になった通知がある以外、候補になったことも知らず、いきなり電話で「受賞しました。お受けになりますか?」というのがほとんどで、懸命に努力するのとは違うのだ。

追悼

氏は、’15年1月21日90歳で亡くなった。「履歴書」の執筆は2004年6月の80歳のときであった。台湾人の両親から神戸で生まれ育つが、教育熱心な祖父から幼少時に母国語を忘れないために、3字の熟語の「3字経」や「詩経」「唐詩」などを素読(丸暗記)させられた。これが長じて役立った。大阪外語大のインド語科に入り、庄野潤三、司馬遼太郎と知り合う。司馬遼太郎とは同い年だが、司馬は一浪なので学年は一年下と書いている。

終戦後、日本統治の台湾は中国の支配下となり、その引継ぎに社会が大混乱を巻き起こす。彼の国籍は台湾にありその時は日本国籍だったのが、それを境に中国籍となった。日本の知識はあっても台湾の知識はないため、台湾に帰国し、中学の英語教師となって3年半を過ごす。国民政府は台湾を「植民地」化しようとしたため、群衆が怒り2.28事件の大暴動を起こす。それにより多くの知人や知識人が命を奪われるのを見て自分のアイデンティティを自覚した。

江戸川乱歩賞などミステリー賞の三冠王となるが、「小説十八史略」「アヘン戦争」「諸葛孔明」「曹操」「敦煌」など中国の歴史をスケールの大きな長編小説や紀行、評論などを発表した。「歴史の中で人間の営みは繰り返される。私たちは歴史に学ばなければならない」の信念があった。彼は「司馬史観」と比較される存在であった。彼の作品の底には、「大中国」の盛衰を探求する目と、司馬史観(中国に抑圧されたモンゴル)に通じる思想を共有していたように思える。

陳 舜臣ちん しゅんしん
S-Fマガジン』1963年1月号(早川書房)より
誕生 1924年2月18日
日本の旗 日本 兵庫県神戸市神戸区(現:中央区元町
死没 (2015-01-21) 2015年1月21日(90歳没)
日本の旗 日本 兵庫県神戸市
職業 小説家
言語 日本語
国籍 (日本の旗 日本)
→(中華人民共和国の旗 中華人民共和国
日本の旗 日本[1]
最終学歴 大阪外国語学校
活動期間 1961年 - 2014年
ジャンル 推理小説歴史小説
主題 中国の歴史
代表作 『阿片戦争』(1967年)
秘本三国志』(1977年)
『太平天国』(1982年)
『小説十八史略』(1983年)
『諸葛孔明』(1991年)
主な受賞歴 江戸川乱歩賞(1961年)
直木三十五賞(1969年)
日本推理作家協会賞(1970年)
毎日出版文化賞(1971年)
大佛次郎賞(1976年)
日本翻訳文化賞(1983年)
NHK放送文化賞(1985年)
読売文学賞(1988年)
吉川英治文学賞(1991年)
朝日賞(1993年)
日本芸術院賞(1994年)
大阪芸術賞(1996年)
勲三等瑞宝章
(1998年)
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(ちん しゅんしん、1924年2月18日 - 2015年1月21日)は、推理小説歴史小説作家、歴史著述家。代表作に『枯草の根』『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。

神戸市出身。本籍は台湾台北だったが、1973年に中華人民共和国の国籍を取得し、その後、1989年の天安門事件への批判を機に、1990年に日本国籍を再び取得している。日本芸術院会員。従四位

長男は写真家の陳立人(1952年 - )[2]。姪(四弟・陳仰臣の娘)に兵庫県立大学教授からノートルダム清心女子大学教授となり、華僑の歴史研究を行っている陳來幸[3]。妹の陳妙玲は、1950年代に「愛国華僑」として中華人民共和国に移り住み、撫順の戦犯管理所の日本語通訳をつとめ、のち北京ラジオに勤務した[4][5]。 

  1. ^ 黒羽夏彦 (2018年7月7日). “「日本文学」を舞台に活躍する台湾出身者”. WEDGE Infinity. 日台を股にかけた越境者たちの知られざる素顔 野嶋剛『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』. 2020年6月2日閲覧。
  2. ^ 東京新聞』夕刊2015年2月28日付。
  3. ^ 野崎剛『タイワニーズ』(小学館)P.237
  4. ^ 野崎剛『タイワニーズ』(小学館)P.250-251
  5. ^ 本田善彦『日・中・台視えざる絆: 中国首脳通訳のみた外交秘録』(日経BPマーケティング)
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