掲載時肩書 | 日本IBM最高顧問 |
---|---|
掲載期間 | 2000/10/01〜2000/10/31 |
出身地 | 岐阜県 |
生年月日 | 1929/05/11 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶応予、バックネル大留学 |
入社 | 日本IBM |
配偶者 | 再婚同士 |
主な仕事 | 本社に説得交渉、31歳工場長、33歳役員、45歳社長、NTTと合弁、TQC、天城会議、本社副社長 |
恩師・恩人 | 水品浩上司 |
人脈 | 鈴木忠雄、田中順一郎(慶応)、 平松守彦、真藤恒、盛田昭夫、野田一夫、宮内義彦、北城恪太郎 |
備考 | 祖父・父も留学、企業広告(渥美清) |
1929年5月11日 – )は岐阜県生まれ。経営者。日本アイ・ビー・エム株式会社の代表取締役 社長・会長を歴任。経済同友会終身幹事。社会経済生産性本部副会長。社団法人企業研究会会長。財団法人慶応工学会理事長。外資系企業の日本での社会的な認知度を向上させ、いわば財界での市民権を得るのに大きく貢献した。
1.日本IBMに就職
1953年(昭和28)3月就職が決まり、カナダのトロント工場で研修することになった。3月5日、トロントに到着、タクシーに乗るとラジオから「スターリンが死んだ」というニュースが流れてきた。
研修中に創業者のトーマス・ワトソン会長が、従業員の永年勤続表彰でトロントにやってきた。会場の入り口で出席者に一人ひとり握手していく。わざわざ日本から研修に来ているというので私も招かれた。のこのこ若いのが現れたのでワトソン会長も驚いたようだった。「どこから来たんだ」「ジャパンです」「頑張れよ」。伝説の人がIBM一年生の手を握り締めてくれた。ワトソン会長の謦咳に触れたのは、それが最初で最後。長身、白髪、眼光鋭い威厳のある人だった。
研修を受けたのは、IBMが同社初の商用コンピュータ「IBM701」を発表した直後だった。本社のショールームで実物を見たが理解不能。真空管を冷やすためウワーンと空気の流れる音がしている。凄まじい光景だった。53年5月、2か月の研修を終えて日本に戻った。時同じくして、コンピュータという得体のしれない機械も日本に上陸しようとしていた。
2.IBMの企業文化
1962年(昭和37)、33歳で取締役に就任した。65年には常務に昇格、生産部門に加え、人事部門も担当することになった。60年代前半に米本社の管理職教育に派遣された時のこと。20人中19人が米国人だった私のクラスに、本社の副社長が講義に来て言った。「皆さん、IBMのおかしな所を指摘してください」。すると次々に手が上がり、皆が「ここが変」「あそこがおかしい」と平然と訴える。研修という点を差し引いても、上下の隔たりがまるでないのに驚いた。「日本にもオープンなIBM文化を根付かせたい」。かねてこう思っていたので、帰国後は人事担当として全国を訪れ、意見を聞いて回ったのだった。
後に社長になって痛感したのは、大きな組織はどうしても悪い情報が上がって来にくくなることだ。英語に「ドント・シュート・ザ・メッセンジャー」という言い回しがある。悪い知らせを持ってくる人間を責めてはいけないという意味だ。トップは時として感情的になり、報告者を叱り飛ばしてしまうことがあるが、これを続けると裸の王様になってしまう。悪い情報が上に届くかどうかは、トップの見識という面もあるのではないか。
3.IBMと日本コンピュータ企業との戦い
日本のコンピュータ産業の歴史は、IBMと国産機メーカーとのし烈な戦いの歴史でもある。日の丸コンピュータ育成の司令塔は通産省だった。1960年(昭和35)、米IBMは保有するコンピュータ特許の使用を富士通、日本電気などに認める代わりに、日本でのコンピュータ製造や米国への利益送還を認められた。当時、米IBMと丁々発止の交渉を繰り広げたのが、平松守彦通産省電子工業課長補佐(現大分県知事)だ。
交渉決着を受け、日本IBMは日本でのコンピュータの製造・販売に本格的に乗り出すことになるが、依然厳しい制約が課せられた。もっともこたえたのは通産省による輸入足止め策だった。機械を国産化すれば輸入規制は関係なくなるが、通産省はこれにも足枷をはめた。生産する機種、台数、輸出台数に厳しい枠を設定したのだ。64年発表の新型機「システム360」も、IBMは中上位機から国産化しようとしたのに、通産省は下位機種を先行させるよう求めた。当時生産担当の私は、平松さんと随分これらでやり合った。
先端システムではIBMに走らせるが、それ以外の分野では時間を稼ぎ、国産勢に後を追わせたのだ。少しはIBMとの競争にさらさなければ国産機が育たないことを通産省も分かっていたのだろう。うちは全力疾走できないからもどかしいし、悔しい。だが、私も日本人だから、なぜ役所が強引な事をするか分かる。米本社も通産省の折衷案を容認した。
4.日本化路線を進める
これを進める上で最大のハードルは米本社だった。原理原則を重視する本社を説得するため、太平洋を何度、往復したか分からない。一番すさまじかったのは価格の問題だ。IBMは歴史的に世界統一の価格体系を守ってきた。確かにこれだと値崩れを防げるし、独禁法の問題も生じにくいが、ライバルが値引き攻勢をかけている日本で定価を守っていたらシエアは下がるばかり。70年代後半、私は日本独自の価格体系導入を提案した。
もちろん米本社はノー。当時、米国はインフレ時代でどんどん定価を上げていた。日本でのシエア低下は知っていたが、利益水準は悪くないので危機感が薄い。本社は値上げに同調するよう迫ってきたが、私はお客が逃げると反発。戦いの舞台はニューヨークで開かれる予算会議に移された。価格問題を突き詰めれば、本社の言い分にも一理ある。値上げをすれば紙の上では翌年の利益が増えるからだ。こちらは「そんなことをすればお客が逃げてしまう」と感じるが、「どれだけ逃げるんだ」と言われると言葉に詰まる。時間をかけて日本IBMの苦しい立場を説明、ようやく84年に日本独自の価格設定が認められた。
もちろん本社の壁を乗り越えられなかったこともある。代表的なのがソフトの有料化だ。米IBMは1969年、ハードとソフトの価格分離を打ち出した。ハードとソフトの一体販売を止め、ソフトやサービスにも値段を付けたのだ。ところが当時の稲垣早苗社長はこれに猛反発した。ただでさえ国産機の攻勢が強くなっているのにソフトを有料化したら大打撃を受けるというわけだ。しかし何度「時期早尚」を訴求してもダメだった。
米本社との戦いを振り返ると星取表は6勝4敗から7勝3敗ぐらいか。ロジックの壁に敗れ、帰りの飛行機の中で悄然としていると、ヘッドホンから義理人情が塊の森進一の演歌が流れてくる。思わず涙がこぼれたこともあった。
氏は‘23年4月19日、93歳で亡くなった。この履歴書に登場は2000年10月の71歳のときでした。氏は外資系企業の日本での社会的な認知度を向上させ、いわば財界での市民権を得るのに大きく貢献した。IBMの社長になっての仕事は「セル・IBM・イン・ジャパン」「セル・ジャパン・イン・BM」だった。日本の実情を理解させるのがセル・ジャパンだとしたら、IBMの経営を日本に伝えるのがセル・IBMだった。
1.天城会議の開催
日本とのつながりを築くために続けてきた試みが、1970年(昭和45)に始めた天城会議だ。毎年夏に静岡県天城高原にIBM施設に財界人、学者、マスコミなど十数人が集合。「人間と環境」といったテーマについて1泊2日で討論する。
もともと天城会議は有識者にコンピュータを学んでもらう場にするつもりだった。しかし技術の勉強と言ったら忙しい人に来てもらえない。そこで情報化について意見交換する「情報社会研究会」と銘打った。講義が始まると一人が怒り出した。「話が違う」。やむなく自由討論に切り替えた。翌朝参加者が言った。「面白かった。続けて欲しい」。毎年自由討論でいくことが決まった。
会議を育ててくれた人にソニー創業者の盛田昭夫さんと宮城大学学長の野田一夫さんがいる。二人は財界や学界から参加者を募ってくれた。
2.日本国への提言(氏の遺言のように思える)
今の日本は「分断国家」である。国の形こそ朝鮮半島や以前のドイツのように分断されてはいないが、実体は二つに分かれている。経済の世界では、世界的に競争力のある非規制業種と、競争力のない規制業種とが同居している。種々の規制でがんじがらめになり競争力を失った産業の存在が、生活コストを高騰させ日本に住む人々の生活を圧迫している。しかし、規制業種の中でも、自らの創意工夫により、競争力を高める企業が出てきつつある。自己責任で競争を勝ち抜こうとする企業が、どんどん伸びていくような制度や仕組みを国が整備していく必要がある。
政治・文化の世界でも、やはり国際派と国内派という二つの勢力が同居している。世界各国から著名な政治家・経済人、学者が参加する国際会議のダボス会議に行くとよく分かる。
日本からも政治家や経済人が出席するが、メンバーは国際派と呼ばれる人たちで固定しがち。一方日本以外からの参加者を見ると、世界最大のソフト会社であるマイクロソフトのビル・ゲイツ会長や中国の朱鎔基首相など国を代表する経営者や政治家が当たり前のように出席している。先進国で国際派・国内派なんて色分けが今でもまかり通っているのは日本ぐらいだ。
一言で言うと、この国には「二つの日本」が存在する。グローバルな視点で眺めると、こうした状況は異質だ。次の世紀に日本が世界と共生し、光り輝く国でいるためには、二つの日本を一つにしていく必要がある。
では日本はそのために何をすればいいのか。突き詰めればグローバルな舞台で通用する人材の育成に行き着く。例えば、情報技術(IT)の普及でグローバル化が進展する中で、IT教育を強化していくことは不可欠だ。単にパソコンを使いこなすだけでなく、ソフトを創造できる人材を育てる必要があるだろう。中略。
私は以前から「若者、女性、地方、外国人」に期待すると言ってきた。戦後の日本社会を作り上げてきたのが「中高年、男性、中央、日本人」だとすれば、今必要とされているのは、そうしたいわゆるエスタブリッシュメントとは異なる人たちの発想だと思うからだ。成功体験に縛られたエスタブリッシュメントは自己否定できない。かく言う私だって似たようなものだ。
たとえ今は少数派でもいい。日本を光り輝く国にしようという志を持った人たちが新しい国を創っていってほしい。日本を変える意志を持った人だけが日本を変えられるのだから。
*日経新聞の追悼(2023.4.27)
氏は、ソニー創業者の盛田昭夫氏が経団連の国際化を進めるために作った国際企業委員会で88年に小林陽太郎氏に続いて2代目の委員長に就いた。外資系企業と日本企業の間の敷居をなくしたいと願い、「私の役目はこの委員会を消滅させることだ」と語った。
外資系企業の日本化と同時に、日本企業の国際化にも心を砕いていた。複数の企業で社外取締役を歴任し、経営諮問委員を長年務めたダイキン工業では海外工場を全て視察して改善点を指摘するなど、グローバル展開を裏から支えた。日本を国際的に整合性を持った形に変えたいとの思いから、規制緩和についても積極的に提言した。行政改革委員会の規制緩和小委員会では座長として報告書をまとめた。
70年にはIBMの研修施設に経営者や政治家、官僚、文化人などを年1回集めて泊まりがけで幅広い社会課題を議論する「天城会議」を発案。今でも続いている。キッコーマンの茂木友三郎名誉会長は「日本の現状や将来を議論したことは、日本社会において大きな貢献として残った」と悼んだ。