平松守彦 ひらまつ もりひこ

行政・司法

掲載時肩書大分県知事
掲載期間1992/06/01〜1992/06/30
出身地大分県
生年月日1924/03/12
掲載回数29 回
執筆時年齢68 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他五高 九州大学
入社商工省→ 通産省
配偶者大分市長娘、再婚:医師娘
主な仕事工業用水、工業立地、世界1周視察旅行、情報処理振興、国土庁、一村一品→海外展開、テクノポリス、大分フェア、地域連合、塾開設
恩師・恩人佐橋滋
人脈椎名武雄・野田一夫・吉村益次・御手洗毅・三重野康(大分)、橋口収、日野葦平、出光佐三、川中美幸、遠藤周作
備考受洗、座右の銘は「継続は力なり」
論評

1924年3月12日 – 2016年8月21日)は大分県生まれ。通産官僚、元大分県知事。「一村一品運動」の提唱者として有名である。1959年5月、日本にコンピュータ業界が無かったなかで「コンピューター業界」を対象とした重工業局電子工業課が1957年の電子工業振興臨時措置法によって設けられ、その電子工業課長補佐に就任。メーカーに対して補助金と税金など優遇を付けることで、コンピュータ業界のテークオフに関わったのみならず、国内ユーザー相手にIBMよりも安くレンタルし、償却されたコンピュータも全て引き取るために日本電子計算機株式会社設立にも関わった。2009年ドラマ版の官僚たちの夏5話で描かれた、通産官僚と米コンピュータ社副社長の対決は、『計算機屋かく戦えり』に収録された平松へのインタビューでの証言(1960年のくだり)との一致がみられる。

1.上司・佐橋滋課長(昭和24年(1949):入省時)
この課長が「異色官僚」として名を馳せ、後に城山三郎著「官僚たちの夏」の主人公、風越信吾のモデルになった人だ。佐橋さんは細かいことには口を出さず部下に任せ、課内は役職を問わず意見を述べ合う自由闊達なムードがあった。
 佐橋氏さんは現役時代、一切年賀状を出さなかった。私は上司ではただ一人、佐橋さんの世田谷の家だけは毎年正月には年賀状代わりに新年の挨拶に出かけた。彼は剛直にして歯に衣を着せずものを言い、大臣、政治家とも妥協しない。当然、風当たりも強かった。企業局長時代、「特定産業振興法」成立に奔走したが、自民党や金融界の反発で流産の憂き目にあった。
 佐橋さんは「親分肌」とか「佐橋人脈」とかよく言われるが、彼が部下に慕われたのは、部下に殉ずるところがあったからだ。私はこれまで、佐橋さんから一杯飲もうと誘われたことはない。逆に付き合ってくださいと申し出て、断られたこともなかった。

2.石油会社集約に奔走
昭和40年(1965)、産業公害課から今度は石油計画課の課長になった。その頃は外資系石油会社が圧倒的なシエアを握っていて、これに対抗して民族系石油会社を集約強化しようと日本鉱業、アジア石油、東亜石油の販売部門を一本化して、共販会社をつくる構想が進行中であった。
 何しろ3社のガソリンスタンドを一つに纏めるのだから容易ではない。しかもアジア石油の川鍋秋蔵社長は日本交通の経営者であり、タクシー業界の実力者として知られていた。東亜石油の近藤光正社長も相当なワンマン社長で、一筋縄にいかなかった。御茶ノ水の病院で静養中の近藤社長に果物カゴを携えてお見舞いに行った時には、合併するならガソリンスタンドの「のれん代」を買い上げろ、といきなり切りだされ、お見舞いどころか大議論となった。日鉱の三間社長からは「通産省が東亜やアジアのわがままを聞くなら、こっちにも考えがある」と迫られた。
 とにかく気苦労と忍耐のいる仕事だったが、40年8月、やっと日鉱副社長の林一夫氏を社長とする共同石油設立にこぎつけた。半年遅れて富士石油も参加し、精販一体の和製メジャー構想がスタートした。

3.対米特許交渉
昭和44年(1969)に電子政策課が新設され、初代課長の辞令をもらったが、コンピュータ業界に携わったのはこれが2回目だった。ちょうど10年前の34年、電子工業課の課長補佐時代に、業界の揺籃期を担当した経験がある。当時は東京の愛宕山下にあった日本電子工業振興協会で、日本電気、富士通、日立製作所、東芝、沖電気、三菱電機の6社がモデル機を試行運転していた。
 電算機は特許の塊で、しかも基本特許はIBMが握っている。国産メーカーが本格生産を始めるには、IBMから特許譲渡を受ける必要があった。特許料(ロイヤルティー)交渉を個別に企業がやっても勝負にならず、35年、通産省が前面に出てIBMとの特許譲渡交渉が始まった。相手はIMBの番頭格で、ワトソン・ジュニア社長の信任も厚かったバーケンシュトック副社長だった。なかなか折り合いがつかず、最後は私と二人だけのひざ詰めの談判になった。粘りに粘ったあげく、ついに先方が折れて7%の要求を5%に引き下げることで話が付いた。
 ところが彼が離日する前日、IBM側は小型電算機1401の日本国内生産を認めて欲しいという新たな提案を持ち出してきた。「日本企業はモスキート(蚊)、あなたはエレファント(象)だ。IBMが国内生産を始めたら日本メーカーはひとたまりもない」。佐橋滋重工業局長はこう言ってカンカンに怒り出し、決裂寸前にまでなったが、国内メーカーから「ここで許可がもらえなくなると安心して生産は出来ない」と泣きつかれ、生産台数を制限することで決着した。

4.一村一品運動
私がこの運動を提唱したのは、昭和54年(1979)11月。知事になってから、初めて開いた市町村長と話し合いの席上だった。「それぞれの市町村で顔になるような産品を作ったらどうだろうか。私がセールスマンになって大いにPRします」。県内58の市町村があり、地域の「顔」になるような特産品を作って全国にPRすれば、所得も上がるし、その町に人もやって来て住民の間にヤル気が出てくるに違いないと考えた。
 もちろん一村一品運動は、自主的な運動でなくては意味がない。だから県は一銭も金を出さなかった。従来の補助金行政や官製運動では、長続きしないし、かえって地域の自主自立の努力を損なう危険がある。むしろ行政に背を向けた地域運動のエネルギーが必要だったし、県もヤル気のある所を応援した。「天は自らを助くる者を助く」という格言があるが、私はこれをもじって「県は自ら助くる者を助く」と話して回ったものだ。

追悼

氏は’16年8月21日92歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は92年6月で68歳のときであった。この「履歴書」に登場した地方自治のトップ(公選の知事等)は、屋良朝苗(沖縄)、安井誠一郎(東京)、町村金吾(北海道)、鈴木俊一(東京)、宮崎辰雄(神戸)、畑 和(埼玉)、土屋義彦(埼玉)と平松の8名である。

49年商工省(現経済産業省)に入省し、旧国土庁官房審議官を経て、79年4月の知事選で当選。知事就任の当初から1村1品運動を提唱する。各市町村単位で独自の特産品を作る取り組みで、関サバ、関アジ、カボス、シイタケなど全国に通用するブランドを育てた。この村おこし、町づくり運動はアジアや欧米などにも広がり、95年には「アジアのノーベル賞」と言われるマグサイサイ賞を受賞した。

通産省時代、コンピュータの自由化時代に官民でガリバー企業IBMに対抗主導したのが平松氏だった。当時の国内メーカーにはIBMに単独で対抗できる体力がなく、電電公社と国内メーカー6社を3社に再編して官民で対抗することにした。それには民間には補助金を出す必要があるため、田中角栄通産大臣にこの構想を説明し、大臣から大蔵省相沢英之主計局長に直談判で許可をもらう。そして日立と富士通、東芝と日本電気、三菱電機と沖電気が手を組み業界を3つに再編し、電電公社との連携で危機を乗り切った。欧州と異なり日本にIBMに対抗できる企業が育ったのは、こうした官民の共同作業が順調に進んだためだと述懐していた。

平松 守彦
ひらまつ もりひこ
生年月日 (1924-03-12) 1924年3月12日
出生地 大日本帝国の旗 大分県大分市
没年月日 (2016-08-21) 2016年8月21日(92歳没)
死没地 日本の旗 大分県大分市
出身校 東京大学法学部卒業
前職 国家公務員
商工省通商産業省
国土庁長官官房審議官
称号 従三位
旭日大綬章
法学士
マグサイサイ賞

大分県の旗 公選第9-14代 大分県知事
当選回数 6回
在任期間 1979年4月28日 - 2003年4月27日
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平松 守彦(ひらまつ もりひこ、1924年3月12日 - 2016年8月21日[1])は、日本通産官僚、元大分県知事

一村一品運動」の提唱者として有名である。その他、関西大学政策創造学部客員教授や立命館アジア太平洋大学 アドバイサリー・コミッティ名誉委員などを務めた。座右の銘は「継続は力なり」。マグサイサイ賞受賞者。

  1. ^ “前大分県知事の平松守彦さん死去 「一村一品運動」提唱”. 朝日新聞. (2016年8月23日). http://www.asahi.com/articles/ASJ8Q7SQTJ8QTIPE02W.html 2016年8月23日閲覧。 
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