掲載時肩書 | 俳優 |
---|---|
掲載期間 | 1979/09/17〜1979/10/14 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1913/05/04 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 66 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 北野中 |
入社 | 東京宝塚劇場 |
配偶者 | 東京女子大生(学生結婚) |
主な仕事 | 東宝劇団、ロッパ一座、満州NHKアナウンサー,映画、演劇「屋根の上のバイオリン弾き」 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 佐藤愛子、サトー八ロー、笠置シズ子、野間宏、谷口 千吉、三木のり平,東野英二郎 |
備考 | 父:菅沼達吉(現関西電力・常務)、叔父・成島柳北 |
1913年(大正2年)5月4日 – 2009年(平成21年)11月10日)は大阪府生まれ。俳優、声優、歌手、コメディアン(喜劇俳優)、元NHKアナウンサー。昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人であり、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌手・エッセイストなど幅広い分野で活躍した。慈善活動にも尽力し、自身の寄付活動を伴淳三郎らとともにあゆみの箱として法人化している。「私の履歴書」では、父親:菅沼達吉、叔父:成島柳北、祖父・祖母の出生、自身の不良ぶりなどが詳しく書かれていた。
1.学生時代から放蕩生活
大阪から東京の早稲田第一高等学院に入ると、大人の世界に入った感じだった。神楽坂、渋谷、池袋と、ツケが効くのを幸に花柳界にもだんだん明るくなってきた。三味線でザレ唄の一つもうたえるようになり、えらそうに流しの新内につつみ銭を投げて、イッパシの遊び人気どりをやったりしたが、幸いにも当時はオカンジョウが盆暮れなのでついつい遊び過ぎるのだ。
池袋の芸者はあかし花が6円50銭、渋谷が7円50銭、神楽坂が8円から9円だったように記憶するが、朝飯がついているのがうれしく、朝風呂などに入ると、何となく旦那気取りになり、学校へゆくのが厭になった。ついでに質屋通いも覚え理工科などはとんと忘れて放蕩の月日が流れた。
2.学生結婚
大学へ行くようになって、私たち3人兄弟は、一家が東京に住むようになり、大久保の柳生さんの離れというバカデカい家を借りて住むことになったが、早稲田劇研の誘致ポスターを東京女子大学に貼ったら野村満寿子というのが来た。劇研に花が咲いたが、そこへたむろする学生の心にもそれぞれ花が咲き、一刻も争うようなツバぜりあいとなり、私が強引にこれを自分のものにした。
この女性(杏子と改名)との夫婦生活が波乱の中にもやがて50年を迎えようとしているが、その頃私たちの家のものは、世間体を気にして妹ということで、この大久保の住居に引き取って一緒に暮らすことになったのだ。
3.家の没落で一転の貧乏生活
長兄と次兄と一緒に東京で生活をしていたが、3人とも親の財産をあてに誰一人月給を家へ持って帰るものない道楽もんのようなだらけた毎日が流れていた。しかも、兄弟たちは、それぞれに株に手を出して、あえなく大金を無くすのである。二・二六事件は、国にとっても、私たちにとっても悪夢であった。株の暴落で私の株屋は一瞬にして消えた。
大久保の二百坪もあった屋敷から逃げるように、半分ぐらいの家に引っ越したが、怠惰と浪費のクセがやまろう筈がなく、誰かが払っているだろうの気安さで過ごした。やがて半年もたつと、出入りの商人たちも黙っていない。その督促・追及の厳しさに耐えかねて、私は母と祖母を芝居見物に出し、その留守に家中のモノを全部タタキ売りしたのだ。
今にして思えば50本程の掛軸の中には、いいものがウンとあったし、曲物の金蒔絵のある火鉢が二つ一組になって五箱もあったが、書籍もすべてひっくるめて、八百七十円の金を受け取った。その夜は母にも祖母にも泣かれたが、いよいよ差し迫った不運を朝まで話しあった。 そして借金の支払いが済むと原宿に三間の小さな家を借りて、細々と暮らすようになったが、金がないということはこんなにつらく情けないことかと、骨身に沁みて分かった。
4.徴兵検査で芝居経験を生かす
昭和13年(1938)7月、召集令がきた。郷里篠山の山岳部隊の営門をくぐった。そして翌朝身体検査となる。サルマタをおろして、ケツの穴まで丹念に見られ、やがて最後の軍医の前に行ったが、私の3人前の男が、軍医に、「どこか悪いところはないか!」と丁寧に聞かれているので、私もアチコチ悪いところを誇大そうに話そうと考えていたら、私の前が、「私はずっと胃が悪くて」というやいなや、
「誰がお前に悪いところを聞いたか。甲種合格!」と驚くような大声で、ポンとハンコを突かれるのを見て、アッ、これはいかん、もう少しでおれもやられるところだったと、何となく従来虚弱な体質であったという風に見せながら、しかも祖国愛にみなぎる忠心愛国に芝居を切り替えた。
「どうだ、どこか体に異常はないか!」。「どこも悪くありません」と蚊のなくようにいった。
「ウソを言ってはいかんぞ、お前も困れば軍隊も困るからな」。「お国のために一生懸命ご奉公します」。「それはいいが、最近病気をしたことはないのか」。「チョッと、耳を手術しただけで大丈夫です」。「耳!耳はいかんぞ、向こうの耳鼻科の所へ行け」。そこに行くと耳の後ろの手術跡を見て「残念だが、また、治してくるんだな」となり、即刻帰郷となった。
1954年(41歳) | |||||||||||||||
本名 | 同じ(旧姓:菅沼) | ||||||||||||||
生年月日 | 1913年5月4日 | ||||||||||||||
没年月日 | 2009年11月10日(96歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 日本・大阪府枚方市上之町[1][2] | ||||||||||||||
死没地 | 日本・東京都 | ||||||||||||||
身長 | 168 cm | ||||||||||||||
血液型 | B型 | ||||||||||||||
職業 | 俳優・声優・作曲家・作詞家・歌手・アナウンサー | ||||||||||||||
ジャンル | 映画・舞台・テレビドラマ | ||||||||||||||
活動期間 | 1936年 - 2009年 | ||||||||||||||
活動内容 | 1934年:早稲田大学商学部に入学 1936年:東京宝塚劇場に入社 1939年:NHKに入局 1947年:『女優』で映画初出演 1950年:映画初主演 1962年:森繁劇団を結成 1967年:『屋根の上のヴァイオリン弾き』を帝国劇場で初演 2009年:国民栄誉賞追贈(死去) | ||||||||||||||
著名な家族 | 父︰菅沼達吉 長男︰森繁泉 | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画 『三等重役』シリーズ /『次郎長三国志』シリーズ 『夫婦善哉』/『警察日記』 『社長シリーズ』/『駅前シリーズ』 『新・三等重役』シリーズ /『男はつらいよ 純情篇』 『恍惚の人』/『喜劇 百点満点』 『小説吉田学校』/『流転の海』 テレビドラマ 『七人の孫』シリーズ /『あんたがたどこさ』シリーズ 『どてかぼちゃ』/『江戸を斬る』シリーズ 『三男三女婿一匹』シリーズ /『関ヶ原』 『裸の大将放浪記』/『おやじのヒゲ』シリーズ 『忠臣蔵』/『白虎隊』 『田原坂』/『五稜郭』 ラジオドラマ 『日曜名作座』 | |||||||||||||||
|
森繁 久彌(森繁 久弥、もりしげ ひさや、1913年〈大正2年〉5月4日 - 2009年〈平成21年〉11月10日[3][4])は、日本の俳優・声優・歌手・喜劇俳優[5]、元NHKアナウンサー。位階は従三位。最晩年はアクターズセブン所属。身長168cm[6]。血液型はB型。
昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人であり[7][8]、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌唱・エッセイなど幅広い分野で活躍した。
<ref>
タグです。「全集
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません<ref>
タグです。「asahi20091110
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません<ref>
タグです。「sansupo20091111
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません<ref>
タグです。「日刊
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません<ref>
タグです。「新撰
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません