掲載時肩書 | 元首相 |
---|---|
掲載期間 | 2012/12/01〜2012/12/31 |
出身地 | 石川県 |
生年月日 | 1937/07/14 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 産経新聞 |
配偶者 | 大学後輩 |
主な仕事 | 雄弁会(西岡武夫、青木幹雄、小渕恵三、)、衆議員32歳、青嵐会(中川、渡辺、石原)、3大臣、党3役、首相、IT戦略、 |
恩師・恩人 | 福田赳夫、安倍晋太郎 |
人脈 | 小沢一郎(同期)、西岡武夫、金丸信、保利茂、本田宗一郎、河合良成、牛尾治朗、扇千景、川口順子 |
備考 | 代々庄屋、父の七光り |
1937年〈昭和12年〉7月14日 – )は石川県生まれ。政治家。第85・86代内閣総理大臣を務めた。2000年4月5日、3日前に脳梗塞で倒れ緊急入院した当時の小渕恵三首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。清和会議員の総理総裁就任は福田赳夫以来22年ぶりであった。このときの連立与党は自民党、公明党、保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。森の首相就任は、当時の自民党有力議員5人(森喜朗本人、青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれ、西側諸国の報道でも旧ソ連のクレムリン並みの密室人事と揶揄された。これらの論評に対して、森自身は「マスコミが密室と言いたがるだけ」と反論した。2020年、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長。
1.早大雄弁会
昭和31年(1956)4月、私は早大商学部に入学し、あこがれのラグビー部の門をたたいた。しかし、1年もたたず体調を崩しラグビー部をやめて、先輩の勧めもあり雄弁会に入った。雄弁会の部屋に行くと、後に文相、参院議長になった西岡武夫さんがいた。西岡さんは2年先輩、1年先輩に青木幹雄さん、同級生に深谷隆司さん、1年後輩に玉沢徳一郎さん、2年後輩に小渕恵三さんがいた。親分肌の青木さんが幹事長になると私は副幹事長になった
直近に卒業したOBには海部俊樹さん、藤波孝生さん、渡辺恒三さんらがいた。竹下登さんも当時からいろいろと学生の面倒を見てくれていた一人である。早稲田の雄弁会は単なる弁論部ではなく、先輩との交流が非常に盛んなところが特徴だった。また、早稲田出身の政治家である自民党の石田博英さん,社会党の浅沼稲次郎さんらの話を聴くのも勉強になった。
2.リクルート議員のレッテル
竹下登内閣が発足して安倍晋太郎さんが幹事長になった。「竹下の次は安倍」が常識だった。消費税法が成立した前後からリクルート問題が拡大した。竹下さん、安倍さん、宮澤喜一さんら有力議員の側にリクルート社から未公開株式が譲渡され、公開と同時に売り抜けて「濡れ手に粟」の利益を上げたと批判された。この事件で最初に名前が出たのは私だった。
確かに私はリクルート社の江副浩正会長に「安定株主になってほしい」と頼まれ、未公開株を譲渡された。金がないので購入資金はファイナンス会社から融資を受けた。私はこの未公開株を公開後も保有し続けていた。問題発覚後、江副さんから「森さん、まだ持っていたの」と電話があったが、売り抜けるという発想は全くなかった。
私に関する限り、「濡れ手に粟」という批判は当たらなかった。あくまでも安定株主であれば良いとの考えだった。メディアは私を「リクルート議員」と決めつけた。私が江副さんと親しかったのは事実である。政治献金もパーティ券購入もあったが、きちんと処理していた。
3.密室談合と批判された反論
1999年10月に自民党と自由党の連立に公明党が加わった自自公政権が発足した。自由党の小沢一郎さんは初めはおとなしく協力したが、例によって次第にわがままを言い出し、「自民党と自由党の対等合併」を提案してきた。無茶苦茶な話である。官房長官の青木幹雄さんも幹事長代理の野中広務さんも猛反対である。私も当然反対で、私たちは自由党との連立解消を覚悟した。
2000年4月1日に小渕恵三首相と小沢さんの会談が行われ、その夜、小渕首相は脳梗塞で緊急入院となった。翌2日に自由党分断対策を協議する党五役会議が開かれ、青木さんを首相臨時代理にすることを決めた。国会開催中で予算関連法案はまだ成立していなかった。
青木さんは「代理は長くやれるものではない。国会もあるから早く後継者を決めた方がいい」との判断だった。その場で瞬く間に「森さん、後継者はあんたしかいない」という結論になった。野中さんは「公明党も森さんでいいと言っている」と話した。亀井静香政調会長も村上正邦参議院会長も私を支持した。欠席の池田総務会長にも電話で連絡し「それで結構です」との連絡があった。
予想もしない急展開だった。私は両院議員総会で正式に総裁に選出され、4月5日に森内閣を発足させた。ウォーミングアップなしの緊急登板である。青木官房長官も含め全閣僚に留任してもらった。
私はメディアから「密室談合で選ばれた首相」と批判された。こうした批判は全く的外れである。現職首相が意識不明の重体になる前代未聞の事態に直面して、のんびり総裁選をやるのは国家の危機管理上からも許されない。
森 喜朗 もり よしろう | |
---|---|
生年月日 | 1937年7月14日(87歳) |
出生地 | 日本 石川県能美郡根上町(現・能美市) |
出身校 | 早稲田大学第二商学部 |
前職 | 産経新聞記者 |
現職 | 日本ラグビーフットボール協会名誉会長 日本トップリーグ連携機構名誉会長 日本スポーツ協会最高顧問 全国経理教育協会名誉会長 日本水フォーラム会長[1] アジア・太平洋水フォーラム会長[1] |
所属政党 | 自由民主党(森派→無派閥) |
称号 | 桐花大綬章 商学士(早稲田大学・1960年) |
配偶者 | 森智恵子 |
子女 | 森祐喜(長男) |
親族 | 森喜平(祖父) 森茂喜(父) 岡田直樹(姪の夫) |
サイン | |
公式サイト | 石川2区選出 元衆議院議員 自由民主党 森 喜朗 公式ウェブサイト(2016年5月7日時点のアーカイブ) |
第85-86代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 第1次森内閣 第2次森内閣 第2次森改造内閣 (省庁再編前・再編後) |
在任期間 | 2000年4月5日 - 2001年4月26日 |
天皇 | 上皇(明仁) |
第62代 建設大臣 | |
内閣 | 村山改造内閣 |
在任期間 | 1995年8月8日 - 1996年1月11日 |
第54代 通商産業大臣 | |
内閣 | 宮澤改造内閣 |
在任期間 | 1992年12月12日 - 1993年8月9日 |
第105代 文部大臣 | |
内閣 | 第2次中曽根内閣 |
在任期間 | 1983年12月27日 - 1984年11月1日 |
内閣 | 福田赳夫改造内閣 |
在任期間 | 1977年11月28日 - 1978年12月7日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (旧石川1区→) 石川2区 当選回数 14回 (1969年12月27日 - 2012年11月16日) | |
初代 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長 (2016年8月21日 - 2021年2月18日) | |
第19代 自由民主党総裁 (2000年4月5日 - 2001年4月24日) | |
第34・37代 自由民主党幹事長 総裁:河野洋平 (1993年7月 - 1995年8月) 総裁:小渕恵三 (1998年7月 - 2000年4月5日) | |
第38代 自由民主党総務会長 総裁:橋本龍太郎 (1996年 - 1998年7月) | |
第37代 自由民主党政務調査会長 総裁:宮澤喜一 (1991年 - 1992年) | |
ラグビーワールドカップ日本招致委員会会長 (2004年10月18日 - 2019年11月2日) |
森 喜朗(もり よしろう、1937年〈昭和12年〉7月14日 - )は、日本の政治家。
内閣総理大臣(第85・86代)、建設大臣(第62代)、通商産業大臣(第54代)、文部大臣(第105代)、内閣官房副長官(福田赳夫改造内閣)、総理府総務副長官(第14代)、衆議院議院運営委員長、同大蔵委員長、衆議院議員(14期)、自由民主党総裁(第19代)、自由民主党幹事長(第34・37代)、自由民主党総務会長(第38代)、自由民主党政務調査会長(第37代)、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長(初代)を歴任した[2]。