掲載時肩書 | 元駐米大使 |
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掲載期間 | 2001/02/01〜2001/02/28 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1923/01/16 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 外務省 |
配偶者 | 見合い |
主な仕事 | 仏→露、条約局長、官房長、外務審議官、事務次官、駐米大使、 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 大平外相、中曽根首相、シュルツ、マンスフィールド、皇太子夫妻訪米、 |
備考 | 姉:堀江薫雄妻 |
氏は昭和21年外務省にはいり,条約局長,官房長,メキシコ大使,外務審議官をへて,58年事務次官。60年アメリカ大使となり,日米経済摩擦問題に対処した。
氏の「私の履歴書」は、初日に自らを「職業外交官」と名乗っており、記述も無難な表現ばかりで、外務省先輩で「履歴書」に登場の下田武三、朝海浩一郎、牛場信彦のような外交交渉時の内幕詳述はなく、面白みの欠けるものでした。その中で、印象に残ったものを紹介します。
1.外交の本質とは
外交に勝ち負けは無益であって、あるのは成功か、失敗か、ということだ。つまり日本全体の利益のために、どれだけその目的を達成することができたかという成否である。いずれの国も国益を主張する。その立場の違いを越えて、どこに妥協点を求めるかが外交交渉にほかならない。また、外交官は国の外交全体からすれば、一つの機能のようなものに過ぎない。外交の力は、政治、経済、技術、文化の総合力にほかならず、外交だけ独立することはありえない。内政と外交は表裏一体の関係であって、国家の重要決定は最終的に首脳間の交渉にゆだねられるのは当然のことだ。
2.ハイジャック事件(官房長時代)
1977年9月28日、インドのムンバイ空港を飛び立った日航機が日本赤軍によってハイジャックされた。乗客・乗員救出には身代わりの人質が必要になった。同省の橋本恕参事官と石井一政務次官が人質となり、ダッカに飛び、人質が解放されるアルジェまで同行した。事件発生の翌日、政府は犯人側の要求を受け入れ、拘置、服役中だった過激派の釈放と、身代金600万ドルの支払いを決めた。「人命は地球よりも重い」と述べられた福田赳夫首相の決断である。しかし、人質の全員解放は難航した。犯人を受け入れる国がいなかったためであるが、最後に承諾したのがアルジェリアだった。その条件は「受け入れによる損害に一切の責任を負わない」「身代金の返還要求に応じない」「犯人の引き渡しにも応じない」の3条件を付けてきた。応諾することで10月3日、アルジェリアで残る人質の全員が解放され、事件は134時間を経て、ようやく幕を閉じた。
3.皇太子ご夫妻(現上皇ご夫妻)のご訪米(駐米大使時代)
1987年10月、ご夫妻が米国を訪問された。ワシントンではレーガン大統領主催の歓迎宴、ブッシュ副大統領、シュルツ国務長官とのテニスと、心の通い合う日程が続いた。ところが、ニューヨーク選出の下院議員からご夫妻に「ぜひともハーレムをお訪ねいただきたい」との要請があった。国務省は治安上の理由から慎重に、とのことだったが、これが外に漏れて、黒人団体が国務長官に公開質問状を出す騒ぎにまでなった。日米双方が神経をとがらせたが、両殿下は喜んで訪問しましょうとのご意向を示された。
それでもニューヨークの警備当局は「車で通過するだけ」と主張したが、ご夫妻は特設の歓迎会場で車を降り、集まった人々と握手をして回られた。最後の女性は小柄だったために、妃殿下は握手されようと身をかがめられた。その女性は妃殿下が頬にキスをしてくださると思ったらしい。わっと妃殿下に抱き着いて、しばらく離れようとしなかった。この写真が翌日の米紙に大きく報道された。