掲載時肩書 | 丸紅会長 |
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掲載期間 | 1990/12/01〜1990/12/31 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1919/03/15 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 東亜同文書院 |
学歴その他 | |
入社 | 大同貿易(後丸紅) |
配偶者 | 東亜同文書院先輩の娘(森長英仲人) |
主な仕事 | マニラ、華僑対策、大建産業、丸紅、バー「はるな」、「敦煌」映画 |
恩師・恩人 | 宇都宮直賢大佐、市川忍 |
人脈 | 檜山広、三木清、森長英、市川忍、牛場信彦、三田佳子、西田敏行、野口晴哉 |
備考 | harunaの回教徒名多し |
大正8年(1919・3・15)-2002)神奈川県生まれ。 昭和後期-平成時代の経営者。昭和15年大同貿易(のち大建産業→丸紅)に入社,24年丸紅にうつる。欧州支配人などをつとめ,43年取締役。専務,副社長としてロッキード事件後の信用回復につとめ,58年社長,62年会長。平成14年3月3日死去。経済界きっての中国通で知られ、中国との様々な商談を手掛け、丸紅の対中ビジネスの礎を築いた。また、アジアを中心とする海外と日本との橋渡し役として昭和60年から日本ペルー石油社長、平成3〜11年日中経済協会副会長、日本ペルー経済委員会委員長を務めるなど、数多くの国際会議やミッションに参加し、交流に貢献した。
1.陸軍報道部の仕事
昭和16年(1941)12月8日、戦争が始まった。そして12月末、陸軍報道部徴用の命令がきた。翌1月2日、東京の近衛師団司令部に集合せよ、とのことで上京、即日、品川・御殿山の旧岩崎邸(現開東閣)の日本家屋に集められた。集まったのは神父、小説家、思想家、新聞記者、画家、写真家、映画の助監督など様々職種の人たちだった。
戦争が始まり、作戦開始と同時にまず報道関係者が一次徴用され、我々が第二次。フィリピンを管轄する第14師団司令部のあるマニラへいくことになった。司令官は有名な本間中将だった。私はその地域を知っている人間ということで比島派遣軍の報道要員として徴用されたのだろう。
そうしたある日の夕暮れに、若い我々何人かが集まって雑談をしていると、哲学者の三木清さんが傍にやって来てこんな話をした。「君たちはこの戦争で日本が勝つと思っているだろう。勝つかもしれない。しかし勝ってみても今までのような戦争の結末になるとは限らない。どんな終わり方がいいのか、悉皆考えて欲しい」。私は日本軍の初戦の勝利から大勝利を信じていたので、この言葉には非常なショックを受けた。
我々はマニラをベースにセブ、レイテ、サマールなど島を回って宣撫活動に従事した。フィリピン人相手に日本の政策をPRしたり、日本語学校を開いて日本語を教える仕事が主だった。
2.特殊潜航艇の自爆・沈没の命令
昭和20年〈1945〉8月15日、戦争は終わった。9月に入って、連合軍の艦隊がやって来て後始末が始まる。私は兵器処理打ち合わせのために軍使となった糀島千蔵少佐の副使として同行、女川湾の沖合に停泊する米巡洋艦に大発(運貨艇)で乗り込んだ。
交渉の結果、我々が持っていた特殊潜航艇を水深200m以上の海底に自走、沈没させることが命じられた。私自身がその処分に当たり、今の東北電力女川原子力発電所の沖の方で、確か水深は300m以上の地点に沈没させた。洞窟に貯蔵してあった魚雷は我々の反対にもかかわらず米軍が全部、その場で爆破、処分した。この爆発では遠く離れた民家にも被害が出た。
3.英国人のビジネス感覚
昭和35年(1960)の年末、私は桧山広副社長(当時)に呼ばれてロンドン支店勤務を伝えられた。肩書は支店次長だった。英国から日本品の英国輸出ばかりでなく、英国品の日本輸出も考えて欲しいといわれた。我々は当然、英国からの輸出にも努力した。米、独のメーカーを競争相手として、英国モリンズ社の各種タバコ機械の日本専売公社への売り込みに成功したが、この成約は英国から高く評価された。
しかし概して英国のメーカーは輸出については妙に気位の高いところがあった。英国の工場は稼働率を常に8割~9割に維持することを第一に考える嫌いがある。需要が増えても設備は増やさず、足りない分は輸入する。需要の先行きを見越して設備を増やし、国内がダメなら輸出に回す日本と根本的に違う。
たまたま我々が受注したプラントの一部を英国メーカーに発注したところ納期を守らない。これでは困るとクレームをつけたところ、1か月や2か月の遅れで何も目くじらを立てることはない。我々の製品は50年、100年の使用に耐える立派なものだと反論される。そんなことも珍しくなかった。