掲載時肩書 | 早川電気工業社長 |
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掲載期間 | 1962/09/15〜1962/10/12 |
出身地 | 東京都日本橋 |
生年月日 | 1893/11/03 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | かざり屋 (坂田氏) |
配偶者 | 先妻死、再婚 |
主な仕事 | 早川兄弟商会、シャープペンシル、日本文具(技師長)早川金属工業、早川電気工業,失明者会館、育徳幼稚園 |
恩師・恩人 | 坂田芳松 |
人脈 | 巻島喜作(資金提供)、岡田満医師、金子満、小唄仲間(伊東深水・細川隆元・宮田重雄・井上貞治郎) |
備考 | 日本の発明王(エジソン) |
1893年(明治26年)11月3日 – 1980年(昭和55年)6月24日)は東京生まれ。実業家・発明家。総合家電メーカーシャープ創業者。シャープペンシルやバックル「徳尾錠」の発明で知られる。東京府(現・東京都)出身。大正三美人として知られる江木欣々は異父姉。自身でさまざまな発明をしており、日本のエジソンといわれることもあった。「まねされる商品をつくれ」が口癖で、独自技術の製品にこだわりを持った。幼少時から苦労を重ねたためか、事業の第一目的は社会への奉仕と言い切っている。1944年(昭和19年)、失明軍人が働く「早川電機分工場」を開設。終戦により分工場は解散したが、1946年(昭和21年)に復職希望者7名により再開。1950年(昭和25年)に失明者工場を法人化して「合資会社特選金属工場」(現・シャープ特選工業株式会社)を設立する。視覚障害者自らが独立採算制で事業を経営する特選金属工場は広く知られ、1952年(昭和27年)には社会事業家の賀川豊彦が世界的富豪で慈善活動家のロックフェラーを伴い工場を視察。1962年(昭和37年)9月、東住吉区南田辺に大阪市立早川福祉会館を設立。
1.信用の一歩
私は18歳の春、ようやく一人前のかざり職人になった。なお引き続き師匠の坂田芳松さん方に住み込んでの独立だった。初めて作ったのが洋服のバンドバックル(徳尾錠)であったが、評判がよく30グロスという実に4千個を超える膨大な注文を受けた。この商談を紹介してくれたのは巻島喜作さんでしたが、この巻島さんは私の独立相談にも乗っていただき、資金の用達も快く引き受けてくれた人でした。この背景には、師匠の坂田さんが以前資金難で動きの取れなかったとき、私は自分のためた9円のうち5円を貯金から引き出して貸してあげたことがあった。それも直に渡すには気が引けて、就寝前に「これは今までにいただいたお金を貯めたものです。どうかお使いください」と鉛筆の走り書きを添えて主人の寝床の下に入れておいた。朝になって坂田さんは、「徳や、この通りだ」私の手をとると拝むようにするのである。傍のおかみさんはがポロポロと涙を落した。「お前の心持ち実に感謝致し候。金5円は正に預かり候」の証文が残った。
その後、長くこれが私の手元に残っていたが、5円事件は坂田さんの夫婦がよく人に吹聴したので世間の評判となり、巻島さんの方にも知れていたらしいのである。
2.鉱石ラジオの組み立て成功
関東大震災で大打撃を受け一からやり直すことになった。再起2年目、大正14年(1925)の春である。アメリカから輸入された新着の鉱石ラジオセット1台を7円50銭で購入することができた。当時、外国ではラジオはすでに実用の段階にはいっており、報道・娯楽の機関として不可欠の地位を占めていた。しかし、日本ではこのラジオがなかったので、アメリカ製ラジオは貴重なものであった。事業は常に新しいアイデアで他より一歩先にと新分野を開拓していかなければ、到底成功は望めないと思い、この鉱石ラジオの開発に没頭した。
年が明けてから、みんなと共にセットの分解研究をやったのである。長年私たちは金属細工には熟練していたからメタルの細かい細工やメッキには絶対的な自信があった。まずどんなものがとにかく耳を充てて聴いてみようと、まだ放送がない時だから工場へモールスの手動電鍵を置いてツーツーという音を送った。セットを付けた連中が代わる代わる「聞こえる!聞こえる!」と大声を出す。電気の初歩も分からない私たちが、まるで怖いものにでも触れるように検波器、ノッチ、ターミナル、蜘蛛巣コイルと部品を一つ一つたどっていったのだが、今から思うと冷汗ものだった。難しい理論は一応棚上げにして、手探りの形で部品見本をつくったのであった。
4月、ようやく自家製小型鉱石セットの組立てに成功した。シャープラジオ受信機第一号で、今日の早川電機のラジオ制作の先駆けである。こえて6月1日、JOBKが大阪三越の仮放送所から最初の電波(500W )を流すと、放送の波は例のセットに見事に入ってきた。工場の全員がすっかり興奮したのだった。