掲載時肩書 | 映画監督・脚本家 |
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掲載期間 | 2007/05/01〜2007/05/31 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1912/04/22 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 95 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | |
入社 | キネマ撮影所 |
配偶者 | スクリ プター、後妻乙羽信子 |
主な仕事 | 脚本勉強、助手、松竹大船脚本部、独立、「裸の島」グランプリ、「鬼婆」「午後の遺言状」 |
恩師・恩人 | 月森仙之助 |
人脈 | 水谷浩、溝口健二、吉村公三郎とコンビ、木下恵介、殿山泰司、吉村実子、 |
備考 | 映画47本、脚本を380本 |
1912年(明治45年)4月22日 – 2012年(平成24年)5月29日)は広島生まれ。映画監督、脚本家。表現の自由と思想の自由を、とことん追求した監督である。日本のインディペンデント映画の先駆者であった。性のタブーに挑戦したり社会派映画を制作したり、冒険的な作品を発表した点が、同世代の監督と大きく異なる点である。『鉄輪(かなわ)』のように前衛的な作品まで制作した。脚本作品も、約370本と非常に多い。近代映画協会会長。
1.脚本は映画の元と知る
新興キネマ撮影所の現像部に採用された。当時は各撮影所が現像場を持っていた。ネガ・ポジの現像されたフィルムの水洗い・乾燥が行われていた。わたしの担当は水洗いと乾燥の末端の作業場で雑役だ。
一本の映画作品が開始されると、現像技師に脚本が配られたが、誰も読まなかった。わたしはこれを下宿に持ち帰り、ドキドキしながら読んだ。ストーリーが展開し場面の説明と会話がぎっしり埋まっていた。
私は興奮した。脚本を読んだことで現像作業をしながらフィルムがどのようにつながっているか見るようになった。各監督の演出、俳優の演技、あの過酷な作業の長いフィルム、みなこの脚本が元なのだ。脚本があるから映画が撮れるんだ。私は脚本に魅せられた。監督になるより先に脚本家になろうと思った。
2.妻へのレクイエムが「愛妻物語」に・・乙羽信子の印象
スクリプターであり貧乏生活を支えてくれた久慈孝子が急性結核で亡くなった。医師から「安静にして、きれいな空気を吸い、栄養のあるものを食べさせなさい」と言われたが、週に一度卵の配給があるだけだ。ヤミでは肉も魚もあったがカネがない。久慈さんは、効きもしない水薬を毎日大事に飲んで、次第にやせ細り、8月7日の夜明けに死んだ。
2年間の兵役を終えて、吉村公三郎監督や木下恵介監督の脚本を書き、映画化することができた。この時わたしは「愛妻物語」のシナリオを描いて持っていた。久慈孝子のレクイエムに書いたのである。これをやらなければ、私の戦後が始まらないと思っていた。書き上げてみると他人の監督に渡したくなくなった。これ一本だけはわたしが監督をしたいと思った。
主演は宇野重吉に決まった。売れないシナリオライターには適役である。ところが、その妻・孝子役が決まらない。当時の映画会社にはスター女優に人妻役をやらせない妙な決まりがあった。清純な処女性で売り出したいのだ。おまけに「愛妻物語」の主人公は血を吐いて死ぬのだから。
そんなとき、乙羽信子が大映の永田社長に直訴して応募してくれた。「乙羽信子です。よろしくお願いいたします」と言ったとき、私は思わずはっとした。久慈孝子が来たのかと思った。顔より雰囲気が似ていたからだ。
3.独立プロで「裸の島」
このスタッフを組んだ。カメラマン1名、助手3名、助監督2名、スクリプター1名、照明2名、製作部2名、そしてわたしの計12名。美術、大道具、衣装、メーキャップ、スチールはなしである。それに、乙羽信子と殿山泰司の二人の俳優で14名。夫婦の二人の子供、その他の役は現地の人。最少の人数である。カネがないからこうなった。
瀬戸内の佐木島に本拠を置いて民家に合宿した。島の人々は快く一室を空けてくれた。島には旅館も食堂もなく、海辺の納屋を借りて食堂にし、製作部の一人が賄い係となり、島民二人を雇って炊事をしてもらった。島には自動車バイクもない。伝馬船と漁船の持ち主と契約し、伝馬船は劇用に使った。
乙羽と殿山の二人は、伝馬船を漕ぐ技術と肥桶を天秤棒で担ぐ練習を1週間やった。この島の坂道は150mあり、ふたりは水を一杯入れた肥桶を担いで毎日登ったのである。乙羽さんの肩は3度皮が剥けた。
1912年(明治45年)4月22日 – 2012年(平成24年)5月29日)は広島生まれ。映画監督、脚本家。100歳で亡くなった。
午後の遺言状
この映画は新藤兼人監督が、夫人であり女優であった乙羽信子さんが癌に冒され余命一年と告げられて、撮影したものでした。日経新聞の日曜版に新藤監督の乙羽さんに対する「私の介護録」として3週間にわたって上・中・下の3回連載となりました。
新藤監督と女優乙羽さんとの出会いは1951年の「愛妻物語」だったとのことで、それ以後結婚しても「センセイ」「乙羽さん」と呼ぶ間柄だったという。
「女優である乙羽さんの人生の締めくくりには映画出演しかないと思い、以前から計画していた映画「午後の遺言状」を僕が切り出すと乙羽さんも二つ返事で承知した。尊敬する杉村春子さんとの共演を何よりも楽しみにしていたのだ。」
撮影は順調に進んでいったが、乙羽さんの体調は目に見えて悪くなり、9月にロケが終わった途端、ベッドから一人で起きられなくなったという。それ以後、新藤さんが乙羽さんを寝かしつけてから就寝し、翌朝も彼がベッドから介助して起こすよう生活習慣を改めた。
「日本海の砂浜で最後のシーンを撮ったとき39度の高熱を押しての演技だった。全てが終わり、僕は乙羽さんに駆け寄った。もうろうとしていた乙羽さんは、うつろな目で見返してきた。40年以上も一緒に映画を作ってきたが、肝臓癌の進行状況から見て、もう乙羽さんを撮ることはないだろう。これが別れの仕事だと思うと、僕は声を掛けられなかった。」
その11月に亡くなるまで、ベッド横に付き添い介護した物語はまさに「愛妻物語」そのものだった感じがいたします。
その年の映画賞を総なめにした映画「午後の遺言状」の二人の名女優、乙羽信子・杉村春子さんも今はもういない。もう一度、この映画を鑑賞したいと思っています。
98/09/27(日)
しんどう かねと 新藤 兼人 | |||||||||||||||||||||||
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『日本シナリオ文学全集 2』(理論社、1955年) | |||||||||||||||||||||||
本名 | 新藤 兼登 | ||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1912年4月22日 | ||||||||||||||||||||||
没年月日 | 2012年5月29日(100歳没) | ||||||||||||||||||||||
出生地 | 日本・広島県佐伯郡石内村 (現:広島市佐伯区) | ||||||||||||||||||||||
死没地 | 日本・東京都港区 | ||||||||||||||||||||||
職業 | 映画監督、脚本家 | ||||||||||||||||||||||
活動期間 | 1935年 - 2012年 | ||||||||||||||||||||||
配偶者 | あり(死別、離別、死別) | ||||||||||||||||||||||
著名な家族 | 子:新藤次郎 子:しんどうぎんこ 孫:新藤力也 孫:新藤風 | ||||||||||||||||||||||
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備考 | |||||||||||||||||||||||
近代映画協会会長 |
新藤 兼人(しんどう かねと、1912年〈明治45年〉4月22日 - 2012年〈平成24年〉5月29日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は新藤 兼登(読み方同じ)。近代映画協会会長。従三位、広島県名誉県民[1]、広島市名誉市民[2]、広島県三原市名誉市民[3]。
日本のインディペンデント映画の先駆者であった。性のタブーに挑戦したり社会派映画を制作したりと、冒険的な作品を発表した点が、同世代の監督と大きく異なる点である。『鉄輪(かなわ)』のように前衛的な作品まで制作した。脚本作品も、約370本と非常に多い。