掲載時肩書 | 歌舞伎俳優 |
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掲載期間 | 2014/02/01〜2014/02/28 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1939/12/09 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶応高 |
入社 | 母: 高杉早苗 |
配偶者 | 浜木綿子,藤間紫 |
主な仕事 | 映画、オハラ女装、super歌舞伎(3S)、欧米公演で飛躍、オペラ演出、ヤマトタケル、京劇、大学教授、 |
恩師・恩人 | 長谷川伸 名付親 |
人脈 | 中村嘉葎雄、(幸・吉兄弟)、梅原猛、中村勘九郎、片岡孝夫、藤山寛美、 |
備考 | 祖父:「私の履歴書」に登場 |
2月に「私の履歴書」に登場した歌舞伎役者(市川猿翁)は、市川猿之助、市川寿海、尾上多賀之丞、中村鴈治郎(2代目)、尾上松緑、尾上梅幸、中村歌右衛門、片岡仁左衛門、中村雀右衛門、中村富十郎、中村鴈治郎(3代目:現・坂田藤十郎)、松本幸四郎に次いで、13人目である。祖父の猿之助(のちに猿翁)もここに最初に登場しているので、親子で登場した中村鴈治郎と似ている。最近では2011年12月に登場した松本幸四郎(S17年生まれ)は歌舞伎役者でありながら、映画、テレビ、ミュージカル、シェークスピア劇など新ジャンルへの役者挑戦があり、芸域を広げた人物として高評価されていた。
1.スーパー歌舞伎を生み出す
市川猿翁(S14年生まれ)の場合は、古典歌舞伎の新演出と復活に加え、伝統歌舞伎を飛び出し、スピード、スペクタクル、ストーリーの3Sを備えたスーパー歌舞伎を定着させた。復活狂言の演出にも工夫を凝らした。時間的には圧縮して、原作の倍以上の内容、量感、面白さを増幅させる趣向のひとつとして早替わりや宙乗りを用いた。そこには、映画の「E・T」や「インディ・ジョーンズ」、オペラの舞台、京劇との共演などからヒントを得て演出や役作りに生かしていた。スーパー歌舞伎の「新・三国志」では、スぺクタクルシーンの赤壁の戦いで巨船が折れて燃えながら沈むシーンは「タイタニック」から着想。火事場の屋台崩し、本水使用の大立ち回り、京劇陣の超アクロバット技工の見せ場を盛り込み、歌舞伎史上初めてとなるオーケストラ演奏も取り入れた。スーパー歌舞伎が喜ばれるのは、①現代人にもわかる現代語採用、②ファッションショーのようなビジュアルなもの、③最先端の技術を使う、④主演と演出を兼ねる、などの要素があるという。
2.藤間紫さん
女性問題では、浜木綿子さんとの結婚は3年で破局を迎えた記述はサラリと書かれていた。しかし、彼が12歳のころ、踊りの師匠・六代目藤間勘十郎師に入門したとき、藤間紫さんは16歳年上の家元夫人であった。2003年に彼が脳梗塞で倒れ苦難の闘病生活をしていたとき、紫さんが支えた。彼女は踊りの師匠であり、猿之助歌舞伎の同志であり、公私ともに最高のマネジャーであり、頼もしい戦友であった。年齢差を超えた信頼で2000年に入籍を果たしたが、彼女は2009年3月に命を閉じたと哀悼していた。彼のスーパー歌舞伎という新しい芸への探求には、年齢差を超えた女性からの貢献があった。ここに私は凄まじい女性の執念を感じた。
氏は2023年9月13日、83歳で亡くなった。この履歴書に登場は14年2月で75歳の時でした。氏はこの「履歴書」の初日冒頭に印象深い言葉で次のように書き始めている。
この10年、脳梗塞になってから体調が万全でない。舞台を休演することがあるが、心はいつも舞台の上にある。あれこれ紙に走り書きしたものをまとめれば、ある歌舞伎役者の生き方を示せるのではないか。思い立って、この履歴書に挑むことにした。
一昨年夏から始まった澤瀉屋(おもだかや)の襲名公演を去年12月の京都南座まで無事終えた。甥の亀治郎が四代目猿之助に、息子の香川照之が九代目中車に、その長男で孫の政明が五代目團子になった。三代目猿之助だった私は二代目猿翁となった。口上では、あふれるばかりの感謝を心中で叫んでいた。
「私は幼いころから普通の人々が追わぬものを、必死に追いかけたような気がする。それは何か・・・よくわからぬ・・・何か途方もない、大きなものを追い求めて、私の心は絶えず天高く天翔けていた。その天翔ける心から私は多くのことをした。天翔ける心、それがこの私だ」。私が演出したスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の最後のセリフだ。
1986年の初演時にはタケルの死ぬ場面のセリフであった。私の生涯を総括するような最も好きなセリフなので95年の上演から最後の締めくくりにした。作者の梅原猛先生に「私を書いてくださったんですね」と感謝した。
宙乗りは5,700回を超えた。なぜ飛ぶのか、とよく聞かれた。天翔けるそのとき、消えてなくなる今が永遠の時間となる。いつまでも残る夢が夢がそこにあった。
*日経新聞(2023.9.17)の朝刊には次の追悼文が掲載されていた。
明治の初めに途絶えたケレンの芸である宙乗りを復活させたとき、28歳。先輩俳優から酷評されたが、観客の喝采をかちとった。「ヤマトタケル」や「オグリ」で知られたスーパー歌舞伎は、現代のケレンを集大成するものだった。現代語によるファッショナブルな歌舞伎は、優れたプロデューサー感覚から生まれた。派手な娯楽劇は批評に恵まれたとはいえない。ただ今日からみて、後進の育成に多大な功績があったことは疑いない。家の芸を基礎とする歌舞伎の世界では、御曹司に生まれないと大役に恵まれない。国立劇場の歌舞伎俳優研修生を一門に迎え、抜てきを重ねた。
その背景には、23歳で三代目猿之助を襲名した直後、祖父(初代猿翁)と父(三代目段四郎)を亡くし「梨園(りえん)の孤児」となった苦境があった。後ろ盾となる肉親を失い、役がつかない。幹部俳優の傘下に入ることも潔しとせず、独立独歩で歩んだ。風雲児は人生の持ち時間を早く使い切ってしまったのか。60代半ばで脳梗塞を患い、舞台に立つことがまれになった。
それでも澤瀉屋(おもだかや)一門の支柱であり続けた。2012年、おいの現猿之助、息子の中車、孫の團子、自らの猿翁を同時襲名する舞台の口上に、不自由な体をおして出た気迫は忘れがたい。芝居の鬼という言葉がこれほど似合う人もいなかった。先に、弟の四代目段四郎が亡くなり、その子の現猿之助が自殺未遂を起こした。不自由な体をさいなむような一門の悲劇をどう受け止めていたのだろうか。門閥にとらわれない「猿之助歌舞伎」は貴重な存在だけに、その継承を見守りたい。
(編集委員 内田洋一)
にだいめ いちかわ えんおう 二代目 市川 猿翁 | |
文化功労者顕彰に際して公表された写真 | |
屋号 | 澤瀉屋 |
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定紋 | 澤瀉 |
生年月日 | 1939年12月9日 |
没年月日 | 2023年9月13日(83歳没) |
本名 | 喜熨斗政彦 |
襲名歴 | 1. 三代目市川團子 2. 三代目市川猿之助 3. 二代目市川猿翁 |
俳名 | 華果 |
別名 | 二代目藤間紫 |
出身地 | 東京府 |
父 | 三代目市川段四郎 |
母 | 高杉早苗 |
兄弟 | 四代目市川段四郎 市川靖子 |
妻 | 浜木綿子(1965年–1968年 離婚) 初代藤間紫(2000年–2009年 死別) |
子 | 九代目市川中車(香川照之) |
当たり役 | |
歌舞伎 『義経千本櫻』の狐忠信 『慙紅葉汗顔見勢』(伊達の十役)の十役早替り 『ヤマトタケル』のヤマトタケル 『オグリ』の小栗判官 | |
二代目 市川 猿翁(にだいめ いちかわ えんおう、1939年〈昭和14年〉12月9日[1] - 2023年〈令和5年〉9月13日[2])は、日本の歌舞伎役者、俳優、演出家。屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三つ猿。俳名に華果(かか)がある。紫派藤間流二代目家元としては二代目 藤間 紫(にだいめ ふじま むらさき)を名乗る[3]。本名は喜熨斗 政彦(きのし まさひこ)[1]。東京都出身[1]。
「猿翁」は隠居名で、49年間にわたり名乗り続けた三代目 市川 猿之助(さんだいめ いちかわ えんのすけ)としても広く知られる。
文化功労者[1]、従四位、旭日中綬章。子は九代目市川中車(香川照之)。
公称身長165cm・体重68kg・A型[4]。 千代田区立番町小学校[5]、慶應義塾中等部・慶應義塾高等学校を経て[6]、慶應義塾大学文学部国文学科を卒業[1]。