嶋田卓弥 しまだ たかや

機械・金属

掲載時肩書蛇の目ミシン社長
掲載期間1965/05/04〜1965/05/30
出身地滋賀県
生年月日1901/12/01
掲載回数25 回
執筆時年齢64 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社「外定」丁稚
配偶者合理主義娘
主な仕事ラシャ問屋、卓弥商店、出版業(広告宣伝の効用・コピ-ライター)、パインミシン(蛇の目ミシン)、理化学工業(リッカーミシン)、蛇の目に再就職
恩師・恩人小瀬与作
人脈小宮山武嘉、菅野弘、川本日出生、前田増三、山田忍三、娘:優良ミシン販売員
備考父:風流医師、「近江商人の社員教育」紹介
論評

明治34(1901)年12月1日―昭和58(1983)年3月27日、京都府生まれ。実業家。小学校5年の時父親が死去したため、大阪の問屋に奉公にでる。のち上京し、「井上英語講義録」の販売宣伝などを手掛ける。昭和9年帝国ミシン企画宣伝部長となり、月掛け予約販売システムで売上げを伸す。22年平木信二と共にリッカーミシンを創立し専務となるが、28年再建途上にあった蛇の目ミシンに転じて常務に就任。のち専務、副社長を経て、36年社長となる。「安く、手軽に、生きたミシンを」をモットーに、予約月賦販売で国内市場に確固たる地位を築き、輸出も伸ばした。

1.米国高級シンガーミシンに対抗して国産ミシンを
昭和6年(1931)2月、私たち親子3人が東京に落ち着き、「井上英語講義録」の販売成功でいろいろ学んだ。①全国規模の広告に対する統計調査、②蓄音機の大量発注によるコストの低下、③善意の大衆相手の月賦は貸し倒れが出るものではない、ということだった。私はいつしか“広告宣伝の専門家”となった。
 当時ミシンといえばアメリカのシンガーばかりであったが、パインミシン(蛇の目ミシンの前身)の顧問となり、シンガーの販売法を懸命に研究した。この米国会社は世界的に低額長期の月賦で販売していたが、総桐のタンスが1本20円ぐらいの時代に、ミシンの定価は230円である。高額の商品を、長期月賦で貸し付けるのだから、勢い得意先はなるべく裕福な家庭を狙うことになる。こちらは、予定価格一台120円、これを誰にでも楽々払える5円の月掛け払いが基本である。
 シンガーが裕福階級を相手にするのなら、こちらは「赤ん坊を背負って市場へ通う庶民階級」を対象としよう。最大多数の庶民層はピラミッドの底辺だが、数のケタが違う。しかも、誰でも買える「月掛け予約だ」。私は焦点をここに置いて広告媒体と文案を選んだ。「どんな洋裁でも奥様の手で・・・」「ミシンを使えばお貯金がふえる!」。それぞれ形の違った広告を出し、一年足らずの間に黒字化し、昭和12年(1937)には、東洋で最初にして最大のミシン大量生産工場の建設に踏み切った。今の小金井工場がそれである。

2.お香典で葬儀費をまかなう(新聞の威力)
母の異母弟で笠永音次郎という人がいた。私もいろいろお世話になったこの叔父が、飲んで飲み倒れたあげく、棟割長屋で死んでしまった。訃報を聞いて駆けつけると、文字通り洗うがごとき赤貧の中で叔母は泣き崩れていた。「葬式を出すのに、お金もなければ今夜のお米もない」と嘆かれ、ハタと考えた。
 僧侶を頼むにもお金がない。親しい従兄と相談して「二人してお葬式だけは出してあげよう」と相談した。そして私は従兄と日の出新聞と京都実業新聞へ行き、故人の死亡記事(無料)を社会面の雑報に出してくれと頼んだ。彼は京の名物男で知人も多い・・・編集者はOKだった。次に二人は和尚に「何とかして、一番安いとむらいを・・・」と30円で引き受けてもらうこととした。従兄は私に「おい、大丈夫かい」と心配顔で言った。私は「うん多分、香典が集まるだろうから何とかなると思う。もしも当日、雨でも降って弔問客がなく、香典が少なければ、あるだけの香典を置いて逃げ出そうよ・・・」と安心させたが、私は内心「どうか、あしたは晴れますように・・・」と祈っていた。
 さて、当日―秋晴れの天気晴朗であった。バンザイ!私は「しめたッ!」と思った。新聞記事で知って、弔問客は続々と来た。香典は思いのほか多く集まった。和尚への謝礼もチャンと済ませ、諸費用を精査したら100円余りも残った。私は精算書にこの金を添えて、子供一人を抱えて後に残った叔母に手渡した。
 大酒飲みの亭主を持って貧乏苦労でやつれた叔母は、「ありがとうございました。主人が生きている間、こんなお金をもらったことはいっぺんもなかった」と涙を流して喜んでくれた。これができたのは新聞の威力である。私はまざまざと新聞の力を知らされたのだった。

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