掲載時肩書 | 画家 |
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掲載期間 | 1967/08/01〜1967/08/25 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1901/06/08 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 66 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 友禅図案、芸者遍歴、毎日新聞・雑誌挿絵、女性修業、 日劇 |
恩師・恩人 | 川口松太郎、長谷川一夫 |
人脈 | 前田重信、吉川英二(鳴門秘帖)大佛次郎(赤穂浪士)、山手樹一郎、梅原龍三郎、永田雅一 |
備考 | 銀座バー3軒 |
1901年6月8日 – 1974年2月19日)は東京生まれ。画家、美術考証家。連載小説の挿絵を多く手がけ、数多くの雑誌・書籍の表紙で「専太郎張り」と呼ばれる画風の美人画を発表した。昭和の挿絵の第一人者として知られる。妹は女優の湊明子。菊池契月、伊東深水に師事する。
1.なまけ者
私は意志薄弱な男だと思っている。今日まで何とか過ごしてきたのは、多少でも絵が描けたおかげだとしか思えない。嘘をつく気はしないから、やむを得ず、だらしなかった若いころの話を書くが、若い人には読んでもらいたくない。何か一つ、身を支えるものがない限り、私の辿ってきた道は、敗残者への道なのだ。都会育ちのせいか早熟で、なまけ者だった。
長年さし絵を多く描き続けてきたから、なまけ者だといっても、不審に思う人もあるだろうが、さし絵は定期刊行物に挿入されるものだから、注文した以上は是非期日までに描かせる必要がある。私が今まで、多くのさし絵を描けたのは、編集の人が催促の努力を惜しまなかった結果だった。ずいぶん、いろいろな人に迷惑をかけたと思う。私事ながらこの機会にお詫びする。
2.お世話になった友人
私は一時期、後に産経出版局の社長になる前田重信の家に同居していた。前田もそのころは、文学志望の青年だった。その前田の友人が作家志望の川口松太郎であり、山手樹一郎だった。川口は、どこかの新聞社に勤めていたと思う。山手も雑誌記者だった。前田は雑文を書いていた。他にもまだ作家志望の若い者が集まって、青くさい議論を戦わしていることが多かった。川口は売れる通俗小説を書き、山手は、高尚でトルストイの名を持ち出す癖があった。川口には新聞社などいろいろ紹介してもらい助かった。
3.遊びまわる
忙しく働きもしたが、遊びもした。銀座のカフェーやバーとか、吉原の仲の町、新橋、赤坂などへ、ときどき行った。新橋や赤坂は、さし絵かきの収入としては、少し無理な場所だったが、どうせ行くなら、三度を一度にしても一流の土地の方が気持ち良かった。
遊びに行っても、「オイ!」とか「お前たち」とかは口にしなかった。モテようと思って、そうしたのではないが、人様の気に入るような絵を描くことを、日ごろ心掛けている自分が、芸者や、女給を、同じ仲間だと思う気がしたのだろう。どうせ、女の人たちも、きれいに着飾ってはいるが、しあわせな回り合わせなら、こんな商売はしていないと思うから、偉そうにする気がしなかった。だが、たいしてモテた実績はない。やたら女体を求めることは、遊びではないと、決めていたからだろう。
4.長谷川一夫宅に間借り
戦後、焼け出されて寝るところも食べるのもない私だったが、長谷川一夫から「専ちゃん、困っているなら、家に来たらどう?」と誘ってくれた。長谷川も、やはり家を焼かれた一人だったが、当時東宝映画の大スターだった彼は、世話する人があって、焼け残った立派な家を借りることができていた。二軒建てで真ん中を渡り廊下でつないだ、住み心地の良い家だった。その奥の方にある茶室を私のために空けてくれた。
5.女性修業
銀座につぎつぎ3軒もバーを作ったのも、私の愚かさのあらわれだろう。といって、店を持たしてやることを条件に、女を口説いたわけではない。なんとなく、ワケアリになってしまった女たちに、それぞれの事情ができて、そうなった次第にすぎない。マイナスと言えば、うっかりしてたが、バーをこさえて失敗だったのは女たちの裏側が見えすぎて、遊びが面白くなくなったことである。