スポーツ
| 掲載時肩書 | 元サッカー日本代表監督 |
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| 掲載期間 | 2025/10/01〜2025/10/31 |
| 出身地 | 大阪府 |
| 生年月日 | 1956/08/25 |
| 掲載回数 | 30 回 |
| 執筆時年齢 | 69 歳 |
| 最終学歴 | 早稲田大学 |
| 学歴その他 | 天王寺高校 |
| 入社 | 古河電工 |
| 配偶者 | 学生結婚(妻3歳上) |
| 主な仕事 | ユース代表、電材事業部、日本リーグ優勝、アジア王者、コーチ、ドイツ留学、ジェフ市原、日本代表監督、コンサ札幌、横浜M、J2優勝、J1連覇、中国緑城監督、FC今治、明徳学園 |
| 恩師・恩人 | 堀江忠男、清雲栄純、加茂周、井本雅之 |
| 人脈 | 加藤久、宇野勝、倍賞明、加茂健、川渕三郎、奥寺康彦、田嶋幸三、コールデス、長沼健、中田英寿、小野伸二、川口能活、流政之、田坂広志、矢野将文 |
| 備考 | 医者の家系、岡田の愛の5段階説、岡田メソッド(守破離) |
氏はサッカー界では川淵三郎、釜本邦茂に次いで3番目である。理論家で岡田の愛の5段階説や岡田メソッド(守破離)など原理原則を打ち出し、日本代表監督を2度務めた。
1.恩師・堀江忠男先生から学ぶ
早大に入って何よりよかったのは堀江先生に出会えたことだ。私が3年生の時、堀江先生がサッカー部の監督に復帰されて距離はぐっと縮まった。ある日、東伏見の自宅にお邪魔した。ちょうど1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻により、80年モスクワ五輪のボイコット問題に世が沸騰していた頃だ。マラソンの瀬古利彦や柔道の山下泰裕ら金メダルが有望視された同世代のアスリートの胸中をおもんばかりながら、私が「スポーツが政治に左右されるのはおかしくないですか」と聞くと、先生は「お前はスポーツマンか、それともスポーツマシンか。どっちだ」と逆に質問された。「スポーツマンのつもりです」と答えたら「だったら一人の人間として、ソ連の行為をどう思う。そこをよく考えて自分で判断しろ」と言われ、どきりとした。
不意に閃いて「先生。先生がいつも一番大事とおっしゃっているのは、ひょっとして愛ですか」と臆面もなく聞いた。先生は「そうだ。私は人類愛のために学問もサッカーもやっている」。衝撃だった。それから「マズローの欲求5段階説」を勝手にもじって「岡田の愛の5段階説」というのを学生の頃から唱え始めた。第1段階に自己愛、第2段階にパートナー愛、第3段階に家族愛・友愛、第4段階に人類愛、第5段階に地球愛を置いた。そして自分が今、どのレベルで物事を考え、決断し生きているかを常に自らに問うようになった。
2.コーチで挫折、ドイツ留学
選手引退後は古河電工の社業に専念したい気持ちも強かった。しかし、サッカー界の恩人である古河電工監督の清雲栄純さんから「次の監督は川本治に任せる。コーチとして手伝ってやれ」と言われ、悩んだ末に引き受けた。しかし、1990年、91年とコーチをやると選手もチームも全く伸びない。完全に行き詰まり、チームを離れて92年春から1年間、海外留学をしたいと人事部に願い出た。古河という会社は本当に素晴らしい会社で、私だけのためにハンブルグに支店を設ける形で、家族同伴のサッカー留学を認めてくれた。
幸運だったのはハンブルガーSVのエゴン・コールデス監督を知る日本人がミュンヘンにいたこと。日本サッカー協会の小倉純二専務理事(当時)に推薦状を書いてもらい、現地プレーを学ぶことができた。しかし何とコールデスが9月に解任された。監督在任期間193日。開幕から勝てない責任を取らされた形だ。コールデスがクラブを去る際、誘われて二人で食事をした。いろいろ話す中で彼は一切グチをこぼさない。私が当時の日本サッカーの感覚で「解任は納得できない」と話すと、彼はドイツ語で「これがフットボール」と話した。「監督とはハードワークするか無職になるか、二つに一つの仕事なんだ」。いまでも頭にこびりついて離れない。
3.指導者の原点
サッカーはドイツで高度な戦術を学べたわけではない。養われたのは指導者としての背骨、原点だった。ハンブルガーSVの練習中に監督が「簡単にボールを失うな」とブルガリア代表のヨルダン・レチコフを𠮟りつけたことがある。レチコフはボールを地面に叩きつけ「うるさい」と言い返した。監督は笛を吹いて全員を集め、「俺がいいと言うまで全員でダッシュ」。中学生の部活かよ、私は呆れた。最終的に主将が取りなして罰走は終わるのだが、後々、私が感じ入ったのは監督に「選手に好かれたい」「いい人と思われたい」みたいな下心が毛頭ないことだった。目的はただ一つ、勝つこと。そのためには孤独を受け入れる強さ、覚悟を持っていた。
4.日本代表監督就任
1997年、41歳になったばかり、加茂周監督から「オカちゃん、後をやってくれ」と言われ、次の1試合だけならと引き受けた。経験も実績もない私には、頼るものは自分なりの理論だけ。ボードに攻撃と守備でやるべきことを簡潔に記し、「気に入らない者は今すぐ、この場を去ってくれてかまわない」と告げた。カザフ戦で全力を出していないように見えた中田英寿はレギュラー組から外した。ふて腐れたら即刻、日本に帰そうと思ったら、練習から鬼気迫るものを見せてくれた。
ウズベクの首都タシケントの試合(1997年10月11日)も1-1で引き分けた。先発に抜擢した城彰二のシュートはオフサイドで取り消され、逆に32分に先制された。試合終盤、DFの秋田豊を最前線に投入、井原正巳にロングボールを蹴れと指示。そのボールを呂比須ワグナーが頭で流すと、そのままゴールインした。同じ引き分けでも今回は追いつく側。90分の同点弾に「これはW杯にいけるかも」と直感的に思った。
5.W杯選手選考の苦悩
日本サッカーが初めて出たワールドカップ(W杯)は1998年6月10日から約1か月間、フランスで開催された。代表監督として最もつらかった仕事が選手選考だった。選手の子供の頃からの夢を断ち切るのだから、それ自体、鬼の所業といえる。選手登録の締切りの6月2日、本大会に臨む22人を事前合宿地のスイス・ニヨンで発表した。外した3人の中にカズこと三浦知良、北澤豪がいたことでおおきなバッシングを受けた。カズはプロ化した日本サッカーの象徴でああり、北澤はアジア予選突破の功労者だった。
選んだ22人は、チームのスタッフとあらゆる状況を想定し、チーム力を最大化するために選手の個性と組合せを熟考して決めたもの。そこに一点の曇りもない。選考に影響したのはGKの扱い。国際サッカー連盟(FIFA)の通達では、GKを2人にしてケガ人が出た場合、医師の診断書付きで3人目を呼ぶのは可とあった。ただし、その3人目はフランス国内に置いてはいけないとも。それでGKは川口能活、楢崎正剛、小島伸幸の3人体制とした。
あらゆる想定の中で一番困ったのは、21歳にして攻撃の核となった中田英寿がケガや出場停止で出られなくなる時だった。アジア予選を通じて中田抜きでは攻撃が成立しないほどの存在になっていた。最終的にその任は当時18歳の小野伸二の天賦の才に懸けることにした。小野が選ばれたのは、次のW杯を見越して経験を積ませるためとも言われたが、あくまで勝つための人選だった。
6.中国の習慣に悩まされる
2度目の日本代表監督の後、2012年から中国・杭州緑城(浙江FC)で外国での監督業に初挑戦した。中国を内側から見るチャンスに好奇心もかき立てられた。緑城はオーナーの方針で若手を育てて勝つクラブを目指していた。まず面食らったのが選手からの付け届け攻勢。「選手起用は実力主義」を理解させることから始めるとは。感激したベテランが「若い選手が羨ましい。力さえあれば試合に出られる」とSNS(交流サイト)で発信して騒動になった。
寮で暮らす選手は衣食住に不自由はない反面、公私とも厳しく管理されていた。監督は自分と同じ省出身の選手を重用するとか、逆に他の省出身の監督の足を引っ張る選手がいるとか。背景には、オープンな移籍市場がないために監督も選手も地縁が頼りという実情があった。遠征先で試合前夜、私に外出許可を求めてきた選手がいた。対戦相手のコーチと飯を食べに行きたいと。驚く私に「同郷の先輩なんです」。一代で財を成したオーナーが金とクチを出すシステムにも悩まされた。知らない間に選手が放出されたり、私の知らない選手が遠征のバスに乗っていたり。さらに省の利害も絡んでくるのだった。契約にない省選抜チームの面倒も私にみさせた。限界を感じた私は契約を1年残して去ることにした。
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![]() 2010年5月25日、内閣総理大臣官邸にて | ||||||
| 名前 | ||||||
| 愛称 | 岡ちゃん | |||||
| カタカナ | オカダ タケシ | |||||
| ラテン文字 | OKADA Takeshi | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | | |||||
| 生年月日 | 1956年8月25日(69歳) | |||||
| 出身地 | 大阪府大阪市[1] | |||||
| 身長 | 175cm | |||||
| 体重 | 70kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF | |||||
| ユース | ||||||
| 1972-1974 | | |||||
| 1976-1979 | | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1980-1990 | | 189 | (9) | |||
| 通算 | 189 | (9) | ||||
| 代表歴2 | ||||||
| 1980-1985[2] | | 24 | (1) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 1997-1998 | | |||||
| 1999-2001 | | |||||
| 2003-2006 | | |||||
| 2007-2010 | | |||||
| 2012-2013 | | |||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。2008年4月12日現在。 2. 2010年7月3日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
岡田 武史(おかだ たけし、1956年8月25日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現在はFC今治運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役、日本エンタープライズの社外取締役、城西国際大学特任教授[3]、日本サッカー協会参与(名誉役員)[4]、ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ理事[5]、学校法人今治明徳学園学園長[6]。
選手時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。古河電気工業サッカー部(現・ジェフユナイテッド千葉)でプレーし、サッカー日本代表として国際Aマッチ24試合に出場。
現役引退後は指導者の道に進み、サッカー日本代表のコーチを務めていた1997年、加茂周の更迭に伴って監督に昇格。日本代表を初のFIFAワールドカップ出場に導き、1998 FIFAワールドカップ本大会でも指揮を執った。2007年から再び日本代表の監督を務め、2010 FIFAワールドカップでベスト16。クラブチームではコンサドーレ札幌、横浜F・マリノス、中国の杭州緑城の監督を歴任した。横浜FMでは2003年、2004年とJ1リーグ連続優勝を果たし、日本が世界に誇る、もっとも優れた名監督の一人とされる[7]。
「岡ちゃん」の愛称で知られる[8]。眼鏡がトレードマークで、現役時代には眼鏡を外さずプレーしていたこともある(ただし、現在一般に公開されている現役時代の写真等では眼鏡を外しているものも少なくない)[9]。
- ^ 出生地は香川県高松市
- ^ “岡田 武史”. サッカー日本代表データベース
- ^ “講演会:岡田武史さんがサッカーを語る−−城西国際大 /千葉”. 毎日jp. (2012年12月9日) 2012年12月18日閲覧。
- ^ 田嶋幸三会長が再任、日本サッカー協会新体制発足-日本サッカー協会公式HP、2018年03月24日
- ^ “サッカー元日本代表監督の岡田武史氏がBリーグ理事就任 65歳最年長に「倒れないように頑張りたい」”. Sponichi Annex. (2021年9月30日) 2021年10月1日閲覧。
- ^ “FC今治高等学校 | 歴史を動かす人財を今治から”. FC今治高等学校. 2024年3月3日閲覧。
- ^ 岡田武史、羽生善治『勝負哲学』株式会社サンマーク出版、2011年、223ページ、ISBN 978-4-7631-3168-3
- ^ “岡田武史氏、日本サッカー協会新理事に内定 協会副会長復帰へ 27日に正式決定”. 日刊スポーツ (2022年3月15日). 2022年3月15日閲覧。
- ^ 長田浩一 (2010年6月25日). “岡田さん、ごめんなさい”. 時事通信. 2010年6月29日閲覧。
