掲載時肩書 | 全日空相談役 |
---|---|
掲載期間 | 1967/11/11〜1967/12/04 |
出身地 | 岡山県大和村 |
生年月日 | 1897/04/16 |
掲載回数 | 24 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 日本銀行 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | ベルリン、上海華興商業銀行、大東亜参事官、丸善石油、池貝鉄工、全日空(前身:ヘリコプター)、貯蓄運動 |
恩師・恩人 | 深井英伍 |
人脈 | 一万田尚登・永池長治・中根貞彦(日銀上司)、美土路昌一(美作出身) |
備考 | 日中友好・ 先輩からの教訓を後輩指導に生かす |
1897年(明治30年)4月16日 – 1989年(平成元年)9月22日)は岡山生まれ。実業家。太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年には、大東亜大臣となった旧知の青木一男に請われ大東亜省参事官となり日本に戻る。終戦後は日本人の引揚げに従事し、中華民国当局との交渉を行った。1952年に全日空の前身である日本ヘリコプター輸送副社長となり、1961年には美土路昌一の後を継いで全日空の第2代社長に就任する。1968年以降は日中覚書貿易事務所代表として訪中を重ねながら、政界の古井喜美、田川誠一らとともに日中貿易冬の時代を乗り切り日中国交正常化に尽力する。周恩来首相とも親睦を深め「兄(岡崎が1歳年上)、弟」と呼び合うほどの信頼関係を築いた。これがきっかけで岡崎の描いていた民間レベルでの貿易構想は「日中総合貿易に関する覚書(LT貿易)」という形で現実化することとなった。この「履歴書」で岡崎氏は先輩、上司からの訓戒を謙虚に受け止め、それを自分の人生に行かした実例を紹介してくれています。
1.ベルリン駐在への助言
昭和4年(1929)秋、ベルリン駐在を命ぜられ、当時理事大阪支店長の中根貞彦さんを訪ねしました。一応の挨拶の後、中根さんはこう言われた。
「君ベルリンへ行ったって、お決まりの経済報告なんかに時間を費やさなくていいよ。いまベルリンには7社ばかりが共同して同盟通信の記者を派遣して経済報告させている。無理をする必要はない。それよりも、ドイツに行ったらドイツの友人をつくり、なるべく家庭的にも交際して、ドイツ人の“ものの考え方”を知ってきなさい。遊んでもいい。つまらない報告を書く時間をドイツの研究に当てるのだ。それは将来世界的な問題が起きて、日本銀行としてこれに対する方針を立てねばならぬとき、ドイツ人はこの問題をどう考え、どう処理するだろうか、ということを君に聞くことがあろうから、それに備えるためのドイツ行きなのだ。ロンドン、ニューヨーク、パリに若い行員を派遣する目的もここにある。短い滞在期間を有効に使って、ドイツ通になるのだね・・」。このときの印象、ご訓示は私の眼底耳底に焼き付いて、いまも忘れることができない。
2.部下の将来性への期待
私はベルリンから帰ってずっと外国為替管理の仕事を担当していた関係で、深井英五さんには副総裁、総裁時代を通じてお目にかかる機会が多かった。毎朝、為替相場やこれに関係あるような世界の事件をまとめて、3分ぐらい深井さんに報告するのが私の役目でした。報告が済むとサッと部屋を出ることを、先輩から勧められていました。ところがある時、報告を終えて部屋から出ようとすると、深井さんから「チョッと待ちなさい」と言われた。一瞬ギクッとしました。
すると深井さんは「私は今ちょっと暇がありますから、あなたに一つお話をしてあげましょう」と言って、大正何年ごろにこういうことがり、そのとき私はこんな処置を考えて進言し、またこういうことを行ったことがある、といった話をしてくださった。そして区切りがつくと、「きょうはこれで終わりです。お帰りなさい」と解放された。
それから何日かたって、また「お待ちなさい」ということで話をしてくださいました。営業局長になり、重役になられたときの話、あるいは副総裁になってこう考え、こうやったなどいろいろな話題を静かに話されました。それが7,8回続き、最後に「これで私があなたにお話しようと思ったことは終わりです」という言葉の後に、「こういう話をするのは岡崎さんはどういうふうにおとりになっているか知らないが、将来あなたが責任のある地位につかれたときに何かのお役に立てば幸いと思って、自分の経験を話したのです」と付け加えられた。私は非常に感激して涙がこぼれました。
3.周恩来首相の言葉
昭和37年(1962)に、あとでLT貿易となる中国との貿易に関する交渉のため高碕達之助さんに付いて北京に行き、政治家の他に私が加わって国務院で周恩来総理と長時間はなしあった。そのとき周総理は、
「日本は長い間中国を侵略してきた。それは中国人にとって非常に嫌な思いであったけれども、しかしこの7,80年の日本侵略は、日本と中国の過去2千年の交わりに比べれば短い期間の問題に過ぎない。我々は日本の侵略に対する憎しみを忘れようとしている。両国が力を合わせてアジア民族の力を高めようではないか。それによって外に向かって戦いを求めるのではなくて、世界に向かってほんとうの平和を求めようではないか」という趣旨の話をされました。
私はびっくりしました。共産主義というものは全く異質のものだと思っていたのに、アジア問題になると、やはり”日本と手を握っていこう“、しかも”日本に対し侵略を受けたことの恨みを忘れよう“と言ったのですから、非常に感激したわけです。
おかざき かへいた 岡崎 嘉平太 | |
---|---|
生誕 | 1897年4月16日 日本岡山県賀陽郡大和村 (現・加賀郡吉備中央町) |
死没 | 1989年9月22日(92歳没) 日本東京都[1] |
死因 | 急性硬膜下血腫 |
遺体発見 | 自宅 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
職業 | 実業家 |
影響を受けたもの | 周恩来 |
肩書き | 全日空社長など |
配偶者 | 時子 |
子供 | 長男・次男 |
親 | 岡崎鶴太郎・時子 |
受賞 | 勲一等瑞宝章受章など |
岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4月16日[1] - 1989年(平成元年)9月22日[1])は、日本の実業家。
1972年岡山県賀陽町(現・吉備中央町)名誉町民。1978年、勲一等瑞宝章受章。1985年、岡山県総社市名誉市民[2]。1985年、岡山県名誉県民[3]。1987年、中国洛陽市名誉市民。