掲載時肩書 | 衆院議員 |
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掲載期間 | 1997/06/01〜1997/06/30 |
出身地 | 鹿児島県 |
生年月日 | 1921/07/09 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 国立台北教育大学 |
学歴その他 | 台北師範 |
入社 | 南日本新聞 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 県議、衆議員、暴れん坊、ヤジ、沖縄本土復帰担当、税調会長、消費税3% |
恩師・恩人 | 屋良朝苗、佐藤栄作 |
人脈 | 吉田茂、福永健司、三木武吉、河野一郎、中曽根康弘、田中角栄、二階堂進、福田赳夫 |
備考 | 柔道四段、暴れん坊、ヤジ得意、祖父・神主 |
1921年(大正10年)7月9日 – 2004年(平成16年)2月20日)は鹿児島生まれ。政治家。衆議院議員(17期)、沖縄開発庁長官(初代)、防衛庁長官(31代)、自由民主党政務調査会長(23代)、通商産業大臣(43代)などを歴任した。税制のスペシャリストとして長年自民党税調に君臨し、「税調のドン」と呼ばれた。
1.大蔵政務次官(予算や査定をじっくり学ぶ)
昭和33年(1958)6月、第二次岸内閣で当選三期目の私に大蔵政務次官のポストが回ってきた。佐藤栄作蔵相が私に指示した問題は3つあった。物品税の改正、樟脳専売の廃止など専売制度の改革、映画配給権の再分配だった。佐藤さんは「一任するから君がやってくれ。僕は一切タッチしない」と言ってくれた。
物品税改正は政治家の利害が複雑に絡み合っていた。貴金属はだれ、化粧品はだれといった形で、それぞれの品目に政治家が付いていた。これを整理しようというわけである。品目の区分けから税率まで全部を私自身がやった。その後、ある団体が「蔵相が了承したので免税にしてくれ」と陳情してきた。私は「この問題には蔵相は口を挟まない約束になっている。蔵相が何と言おうとダメだ」と取り合わなかった。
2.沖縄問題に取り組む
「政治家山中貞則は何をなしたか」と問われるならば、私は真っ先に「沖縄問題」を挙げるだろう。戦前、私の母校である台湾総督府立台北第二師範学校で屋良朝苗先生は教鞭を執っておられた。直接、屋良先生の教えを受けたことはなかったが、この縁で実の師弟以上の深い付き合いをさせていただいた。
昭和45年(1970)、佐藤内閣の時、私は総理府総務長官を引き受け沖縄担当も兼務させてもらった。翌46年7月の改造でも留任、47年5月には初代の沖縄開発庁長官に起用され、結局、3期連続で「沖縄担当相」を務めた。沖縄返還の「準備期」「返還時」「返還直後」の3つの重要な時期に全面的に仕事を任されたわけである。
私は就任直後、沖縄援助予算の追加要求をした。その柱となったのは、沖縄本島、宮古、西表、石垣、久米の5島の循環道路建設だった。琉球政府から上がってくる多くの陳情は、本島の問題が中心だった。しかし沖縄には本島以外に48の有人離島がある。私は大臣就任以前から沖縄に何度も足を運んでおり、「沖縄」と一言では片付けられない島ごとの問題があると痛感していた。ゆえに5循環道路に取組んだ。
3.消費税導入3%(議論尽くし自ら裁定)
昭和62年(1987)4月23日、与野党の3日間に及ぶ衆院本会議での徹夜の攻防を経て、中曽根内閣が心血を注いだ「売上税法案」の廃案が決まった。それは同時に自民党税制会長としてこの法案を作り上げた私が敗北した瞬間でもあった。
この売上税法案の廃案を受けて、翌63年春から竹下登内閣の下で新型間接税(消費税)導入を柱とする税制抜本改革のやり直しの審議が始まった。この審議で最後まで大きな争点として残った消費税の税率は6月14日の党税制改正大綱決定まで持ち越し、「山中裁定」で決着させた。党税調総会の当日、みんなが固唾をのんで見守る中で私が「税率3%」と裁定を下すと、「ウォー」とどよめきが起きた。5%か3%か、あるいはその間をとって4%か、さまざまな憶測が流れたが、私はその日まで一切腹を明かさなかった。
水面下で5%の税率を通したい大蔵省が激しく動いた。裁定の前日の13日、宮澤喜一蔵相が私に会いに来た。「会長、国家財政に対する配慮をお願いしたい」「私は30年以上も税調で仕事をしている。今さら国家財政のためにと言われても聞くわけにはいかない」「どういう裁定になりますか」「あなたに裁定の中身を言うことはできない」。宮沢蔵相の陳情も受け付けなかった。
売上税法案の挫折から1年2か月、遂に消費税を柱とする税制抜本改革案をまとめあげた。私は記者会見で「これにて一件落着」と締めくくった。
山中 貞則 やまなか さだのり | |
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生年月日 | 1921年7月9日 |
出生地 | 日本 鹿児島県末吉村 (現・曽於市) |
没年月日 | 2004年2月20日(82歳没) |
死没地 | 日本 東京都文京区(順天堂大学医学部附属順天堂医院)[1] |
出身校 | 台北第二師範学校 (現・ 国立台北教育大学) |
前職 | 南日本新聞記者 |
所属政党 | (自由党→) 自由民主党(無派閥→旧河野派→中曽根派→無派閥→旧渡辺派→山崎派→亀井派) |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 沖縄県名誉県民 沖縄県竹富町名誉町民 |
第41代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第1次中曽根内閣 |
在任期間 | 1982年11月27日 - 1983年6月10日 |
第31代 防衛庁長官 | |
内閣 | 第2次田中角栄内閣 第2次田中角栄第1次改造内閣 |
在任期間 | 1973年5月29日 - 1974年11月11日 |
初代 沖縄開発庁長官 | |
内閣 | 第3次佐藤改造内閣 |
在任期間 | 1972年5月15日 - 1972年7月7日 |
初代 環境庁長官 | |
内閣 | 第3次佐藤内閣 |
在任期間 | 1971年7月1日 - 1971年7月5日 |
第18代 総理府総務長官 | |
内閣 | 第3次佐藤内閣 第3次佐藤改造内閣 |
在任期間 | 1970年1月14日 - 1972年7月7日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (旧鹿児島3区→) 鹿児島5区 当選回数 17回 (1953年4月20日 - 1990年1月24日 1993年7月19日 - 2004年2月20日) | |
鹿児島県議会議員 (1947年4月23日 - 1953年3月24日) | |
第23代 自由民主党政務調査会長 (総裁:田中角栄) (1974年 - 1974年) |
山中 貞則(やまなか さだのり、1921年〈大正10年〉7月9日 - 2004年〈平成16年〉2月20日)は、日本の政治家。鹿児島県囎唹郡末吉村大字深川(現曽於市)出身。位階・勲等は正三位勲一等。称号は沖縄県名誉県民、竹富町名誉町民。
衆議院議員(17期)、沖縄開発庁長官(初代)、防衛庁長官(第31代)、自由民主党政務調査会長(第23代)、通商産業大臣(第41代)などを歴任した。
税制のスペシャリストとして長年にわたり自民党税調に君臨し、「税調のドン」と呼ばれた。ニックネームは「ヤマサダ」、「ヤマテイ」。浜田幸一や一部の官僚達からは「テイソク」と呼ばれた。