尾身茂 おみしげる

医療

掲載時肩書結核予防協会理事長
掲載期間2025/03/01〜2025/03/31
出身地東京都
生年月日1949/06/11
掲載回数30 回
執筆時年齢75 歳
最終学歴
自治医大
学歴その他慶応大学法学部
入社へき地医療
配偶者記載なし
主な仕事高校米国留学、厚生省、WHO(世界保健機関)、ポリオ根絶、SARS対処、鳥インフル、地域医療機構理事長、結核予防会、市井会議
恩師・恩人金田英雄、真弓忠、小澤博
人脈岡部信彦、押谷仁、西浦博、脇田隆字、浦元義照、岡本宏明、橋下徹、井戸敏三、大宅映子
備考剣道5段
論評

医師としてこの「履歴書」に登場は、田崎勇三(1958.3)、武見太郎(1967.6)、緒方知三郎(1970.7)、冲中重雄1971.7)、内村裕之(1972.11)、榊原仟(1973.5)、塚本憲甫(1974.3)、大塚敬節(1975.6)、山村雄一(1989.10)、日野原重明(1990.10)、杉村隆(1993.11)、斎藤茂太(1995.12)、岸本忠三(2000.9)、石坂公成(2005.3)、早石修(2006.3)、利根川進(2013.10)、本庶佑(2024.6)に次いで尾身氏は18人目である。氏は、医師そして公衆衛生の専門家として、ポリオ、鳥インフル、SARS、新型コロナなどパンデミック(世界的な大流行疾患)に対処してきた40年間を振り返ってくれた。

1.へき地医療を経験
1978年、自治医科大学を卒業、無事に医師の国家試験に合格した。入学金も6年間の授業料も無料。その代わりに「勤務義務」が待っていた。私の場合、資金提供者である東京都が指定する病院や地域で計9年間、医師として働くことが決まっていた。
 まず最初の3年、研修医として勤務したのが都立墨東病院だった。この病院は場所がらなのか、けがや虫垂炎、熱傷など、小児の場合は熱発とか発疹、ぜんそくや腸重積などの急患が多かった。その後、他大学の医学部出身の若手医師とは違い、伊豆諸島での勤務が予定されていた。外科、小児科、産科、麻酔科などの複数の診療科を3か月ごとに回った。よくある病気や、初期対応を誤ると命取りになる病気を中心に集中的に学んだ。いわゆる総合診療医のはしりだ。
 最初の赴任先となった離島が、東京都の利島だ。伊豆諸島・大島の南に位置する人口300人の無医村である。妻と4歳の長男の3人が赴任するだけで人口が1%増えることになる。都が用意したヘリコプターで島の小さなヘリポートに着陸した。村長をはじめ職員があたたかく迎えてくれた。医師一人、看護師1人だが、毎日の外来は7人前後。都立がん検診センターで学んだ内視鏡検査を40歳以上の村民に行った。

2.WHO(世界保健機関)赴任でポリオ(急性灰白髄炎)根絶に取り組む
1990年9月、フィリピンの首都マニラに本部のある西太平洋地域事務局に赴任した。すぐに韓国出身のハン・サンテ地域事務局長から最初の指示が出た。「2000年までにポリオを根絶したい」。ポリオ根絶にはワクチン購入費など約30億円が必要だった。当時、日本は経済バブルのただ中。アジアNO.1の経済大国として中国、カンボジア、ラオス、ベトナムなど西太平洋地域の流行国にワクチンを無償で提供しなければならない。93年8月からの細川護熙政権時代、ポリオワクチンの調達費用として7億円の対中無償資金援助が決まった。マニラ着任から3年弱でやっとポリオ根絶の手ごたえを感じ始めた。
 ポリオ根絶の戦術はとてもシンプルだ。第一に疑われる症例のサ-べランス(調査監視)。全て報告してもらい、採集した便のウィルスを検査する。そして「ポリオ接種予防週間」を設け、5歳以下の9割以上に経口投与する。しかし、言うは易く行うは難し。政治的、社会的、文化的な課題が立ちはだかった。
 まずは中国の「一人っ子政策」。ワクチン接種のためには予防接種台帳を準備する必要がある。しかし、台帳には第一子のみが登録される。予防接種を受けていない第二子、第三子が中国の患者の9割以上を占めていた。WHOが中国に対し「一人っ子政策」という国策を批判するような内政干渉はできない。政治的に微妙な問題だった。ここは中国政府と率直に話し合うしか方法がないと思った。1993年秋、北京に赴き衛生相に直接面会することにした。「一人っ子政策」という言葉は絶対に使わないと決めていた。
 第二子以降にポリオの患者が集中していること、この問題を解決しないと中国における根絶は難しいと説明、「速やかに対処していただきたい」とお願いした。大臣は静かに聴いていたが「少し時間をください」と。9月末、人民大会堂で件の衛生相が「あしたから全ての子供にワクチンを接種してください」と宣言した。第二子、第三子を予防接種台帳に登録してもおとがめなしということを宣言したも同然だった。この冬、中国は全土で約8千万人の子供にポリオワクチンを投与した。公衆衛生史上、空前絶後の出来事だった。

3.地域医療機能推進機構(JCHO)の理事長に(火中の栗を)
2009年2月、WHO西太平洋事務局での生活を終え、20年ぶりに帰国した。ある日、厚生労働省の事務次官から話があった。「尾身さん、大変だけれどもJCHO理事長を引き受けてくれませんか」と。JCHOは、国立病院機構と同様に公的性格の強い独立行政法人である。例の年金記録問題で解体した旧社会保険庁から、社会保険病院、厚生年金病院、船員保険病院の3団体が関係する計57病院を引き継ぎ、2014年4月に発足した。「民営化」と逆行する「公営化」である。当時、売却か、地域医療のために存続させるか、与野党間の駆け引きが続いていた。そういう経緯の中でのスタートだった。
 就任後、東京に全病院長を招集した。地域医療への思い、そして進むべき方向性の施政方針を伝えた。内容にはおおむね賛同してもらった。しかし、いざ改革となると反発にあう。政治家を通じて現状維持を求める陳情もしばしばあった。発足から6年、ようやく地域医療の担い手として纏まりかけた頃合いに、新型コロナが現れた。100年に一度の国難である。医療系独法に求められる公共性と、私がコロナ分科会会長であることを考えると、JCHOは何としても国や自治体の要請に応えなければならない。
 国からの正式な要請以前からコロナ患者の受入れや、JCHO以外の病院への看護師派遣など、できる限り実施してきた。さらに、21年夏、東京五輪が無観客で開催されるなか、官邸からJCHOの都内5病院のうち、1つをコロナ専用病院にするよう要請が出た。短期間に全ての入院・転院させる大変さは、医療人なら誰でもわかる。それでも、東京城東病院をコロナ専用病院にした。日本では例外的なことっだった。
 しかし、ある雑誌に「補助金をもらっているのに、コロナ病床率が低い。ぼったくっている」と非難された。
コロナという前代未聞の危機に、医師、看護師らは身を粉にして奮闘してきた。だが、そうしたことには一切目を向けない批判だった。

4.新型コロナ危機への対応
2020年2月3日、厚生労働省の担当官から電話がかかってきた。「新型コロナ感染症対策でアドバイザリーボード(専門家による助言組織)を立ち上げます。そのメンバーになってください」。その日の夜、乗客の数人に感染症が確認されたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」が横浜に入港していた。招集されたメンバーは、岡部信彦氏、押谷仁氏、釜萢敏氏、河岡義裕氏、川名明彦氏、鈴木基氏、舘田一博氏、中山ひとみ氏、武藤香織氏、吉田正樹氏、脇田隆字氏、そして私の計12名だった。1週間後には内閣官房に「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が発足、メンバーはそのままスライドした。
 メンバー12人は新型コロナウイルス感染症のしたたかさに強い危機感を抱いていた。1週間ほどかけA4版用紙6枚からなる「アドバイザリーボードメンバーからの新型肺炎対策(案)」という非公開提言書を作成、13日に厚労省に送った。コロナ禍において纏めた100以上の提言の先駆けとなる文書だ。国民に対して政府から感染状況の全体像が分かるように情報発信し、状況の変化に応じて可及的速やかに説明することを求めた。しかし、1週間たっても、政府から新型コロナ対策の全体像は示されなかった。クルーズ船対応に奔走されていたといえ、このままでは取り返しがつかないことになる。
 3月24日、加藤勝信厚労相に直談判し、専門家会議として見解を出すことを了承してもらった。夜のNHKニュースへ出演、説明することになった。その2時間後、今度は厚労省で我々が緊急記者会見となった。

5.「5類」移行で政府と距離感
ウィルスは変異を繰り返しながら進化する。2021年12月。これまでと比べて致死率は低いものの伝播力の強いオミクロン株が出現し、22年に入ると瞬く間に広がった。致死率が下がってきた分、感染症対策重視の「強い対策」から、オミクロン株に合った「弾力的対応」にどう移行すべきかの議論を始めた。メンバーの経済学者からは、致死率が低くなってきているので、「まん延防止」の発出条件を満たしていないという弾力的対応の意見もあり、私たち医療の専門家は、感染症の評価には致死率だけはでなく、伝播力や医療への負荷も考慮しなければならない。致死率は下がってきているが伝播力が極めて高いため、死亡者の絶対数は確実に増えているという見方。オミクロン株の出現は政府、専門家双方に新たな課題を投げかけ、同時にその「距離感」も明らかになってきた。
 私たち専門家は、感染症法上の位置づけを「2類相当」から「5類」に移行するという、社会全体にとって極めて大事な「出口戦略」こそ、経済専門家、自治体などが参加する分科会でしっかり議論すべきだと思っていた。1か月かけて練り上げた移行策について7月14日の分科会で議論しようと考えたが、政府は応じなかった。どうしてこの「距離感」が出てきたのか。オミクロン株以前は、感染症対策に軸足が置かれていたため、専門家が政策策定において中心的な役割を担ってきたが、社会・経済を回す時期になってきたので、これからは政治家がリーダーシップをとるべきだと政府は考えたと思う。
「出口戦略」は、ある意味パンデミック初期の感染症対策より難しかったと言える。政府と専門家の立場の違いだけでなく、「コロナ疲れ」に閉口する一般市民と、院内感染を防ぐため現場で闘う医療・介護関係者の間でも見えていた景色は違っていた。
政府は23年1月27日。大型連休明けから「5類」に移行することをようやく決定した。

尾身 茂
おみ しげる
2020年4月7日、東京都千代田区にて
生年月日 (1949-06-11) 1949年6月11日(75歳)
出生地 日本の旗 日本 東京都中野区
出身校 自治医科大学
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尾身 茂(おみ しげる、1949年昭和24年〉6月11日 - )は、日本医師医学者地域医療感染症国際保健)、厚生官僚国際公務員医学博士自治医科大学・1990年)。東京都中野区出身[1]

独立行政法人地域医療機能推進機構の初代理事長世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局名誉事務局長、自治医科大学名誉教授を歴任し、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受けて厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード構成員、新型インフルエンザ等対策閣僚会議新型インフルエンザ等対策有識者会議会長新型コロナウイルス感染症対策分科会長も務めた[2]

東京都立墨東病院伊豆諸島の診療所での勤務を経て、自治医科大学医学部助手となり、厚生省保険局医療課に勤めたのちWHO西太平洋地域事務局事務局長(第5代)、自治医科大学地域医療学センター教授、WHO執行理事、独立行政法人年金・健康保険福祉施設整理機構理事長(第2代)、世界保健総会英語版会長なども務めた。

  1. ^ 新型コロナウイルス感染症対策分科会・尾身茂会長の原点 「人と話すのは好き、人間が好きなんです」 [創刊100周年記念特集 感染症の100年【番外編】]|Web医事新報|日本医事新報社”. www.jmedj.co.jp. 2025年3月9日閲覧。
  2. ^ 種類にかかわらず打って 尾身氏、自身の追加接種で”. 産経ニュース (2022年2月5日). 2022年2月5日閲覧。
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