掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1959/07/18〜1959/08/08 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1894/01/31 |
掲載回数 | 22 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶応予 |
入社 | 慶応講師 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 浪曲、落語、相撲、歌舞伎、慶應講師、三田文学・編集委員 |
恩師・恩人 | 馬場孤蝶 、沢木教授 |
人脈 | 芥川、菊池寛、観音寺、森鴎外、万太郎、佐藤春夫、堀口大學、吉井勇、杢太郎 |
備考 | 永井荷風から悪印象 |
1894年(明治27年)1月31日 – 1994年(平成6年)3月24日)は東京生まれ。小説家、随筆家、俳人。慶應義塾大学文学部在学中に、『三田文学』主幹で西洋美術史家の澤木四方吉から教えを受け、『三田文学』で作品を発表し始める。1916年に先輩作家の文章について批評した『オオソグラフィ』は森鴎外から認められるなど、学生時代から慶應義塾関係者内において、その名は知れ渡る。1922年に親交があった講釈師・五代目神田伯龍を題材とした短篇『一枚看板』で文壇に認められ、1927年の『緑の騎士』で大衆的人気を得る。以後多くの大衆小説を書き『花咲く樹』『人妻椿』『新妻鏡』など人気作を次々執筆し、映画化もされ、そちらも人気を集めるなど、戦前から戦後にかけて一世を風靡した。
1.子供時代
私は自分の肉体に自信がなく、ひいては肉体的な勇気に欠けていた。このことは自分の弱点として一生付いてまわった。子供のころ、私は同じ年頃の子供が怖く、ことにその群衆しているところを見ると、オゾ毛をふるった。だから、幼稚園も一日行ったきり、小学校も、行くのがイヤでイヤで仕方がなかった。私が人当たりがよく、お世辞がいいのも、人に荒く当たられたくないからなのだ。人付き合いがいいのも、同じ理由だ。
この性格から、寄席通いは、小学生の時から大学を卒業するまで続いた。一人で行けるようになるにつれて、落語、講釈のほかに私は浪花節まで手を広げた。浪花節というと、人は軽蔑するが聞いてみると、うまいのは芸になっている。芸になっていれば、私は何でも面白かった。
2.文化の新しい息吹・・明治42年(1909)ごろ
このころ永井荷風がフランスから帰ってきて「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表して大変な評判を沸き立たせた。また小山内薫が、左団次と組んで自由劇場を組織して、イプセンの「ボルクマン」を有楽座で上演した。「スバル」という雑誌に、ブドウの紋を印刷した会員募集のしゃれた広告が出た。会費が1円50銭。小為替で送ると、切符が2枚きた。「ボルクマン」の翻訳が「国民新聞」に掲載された。鷗外先生が原書をもって口で訳していくのを、高浜虚子が筆記していくのだというゴシップが私たちの耳にまで入った。そのころの「国民新聞」の文芸欄は、虚子が主宰していた。俳句は松根東洋城の選で、権威があった。久保田万太郎、飯田蛇笏、野村喜舟などはここから出た。
「邪宗門」で第一声をあげた詩人の北原白秋が、第二詩集の「思い出」を出す出すといって、やっと1年後に出たのだった。田山花袋らの自然主義の運動は、その前から文壇を動かしていた。「白樺」が出、「スバル」が出、「三田文学」が出るというウワサがチラホラ聞こえてきた。
3.馬場孤蝶先生の講義
先生の講義は話が生きていて面白かった。教科書には有名な「ロシア文学史上の著しい目標」を使っていられたが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が論じられると、本文なんかそっちのけで「カラマーゾフ」の梗概を話し出される。トルストイの「戦争と平和」が論じられると「戦争と平和」の梗概を話される。それが、ありきたりの梗概ではないのだ。まるで「カラマーゾフ」や「戦争と平和」を読んでいるような梗概の話し方なのだ。だから、とても面白い。
先生の時間も2時間続きだったが、とても2時間では話しきれない。そうすると、学校を出て、三田の通りから芝公園を抜けて、芝の大門に出、どうかすると、あすこの「太々餅屋」で一休みをし、さらに露月町、柴井町、日影町を通って銀座に出、パウリスタで休んでもまだ話が尽きない。そのまま夜になり、先生があんこう鍋とか、馬鍋とか、寄せ鍋とか、そんなものをご馳走になりながら、それからそれへと話をたまわる。挙句の果てに、講釈場へ入るか、タレ義太の寄席に入るかする。だから、先生の講義のある日は一日楽しい遊びだった。
小島 政二郎 (こじま まさじろう) | |
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読売新聞社『家庭よみうり』401号(1954年)より | |
誕生 | 1894年1月31日 東京府東京市 |
死没 | 1994年3月24日(100歳没) 神奈川県鎌倉市 |
墓地 | 谷中霊園の天王寺墓地 |
職業 | 作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 慶應義塾大学部文学科 |
活動期間 | 1922年 - 1984年 |
ジャンル | 小説・国文学研究 |
主題 | 文壇交友録・随筆・古典鑑賞 |
代表作 | 『緑の騎士』(1927年) 『眼中の人』(1942年) 『食いしん坊』(1954年) 『円朝』(1958年) |
デビュー作 | 『含羞』(1924年) |
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小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1月31日 - 1994年(平成6年)3月24日[1])は、日本の小説家、随筆家、俳人。俳号は燕子楼。