掲載時肩書 | 日本カーバイド社長 |
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掲載期間 | 1962/07/01〜1962/07/26 |
出身地 | 熊本県 |
生年月日 | 1879/11/29 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 83 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 五高 |
入社 | 大蔵省 |
配偶者 | 長岡藩士娘 |
主な仕事 | 三菱本社、日本硫安工業、東洋窒 素、大同燐寸、日本カーバイド工業 |
恩師・恩人 | 赤星陸治、桐島像一、岩崎久弥、 |
人脈 | 池田勇人・佐藤栄作・荒木万寿夫・一万田尚登(五高)、広田弘毅(大学)五高校長(加納治五郎)、野口遵 |
備考 | 父・村長・校長、盃礼賛 |
明治12(1879)年11月29日~昭和41(1966)年5月27日熊本県生まれ。実業家。大蔵省を経て、明治39年三菱合資会社に入社。大正3年本社総務部副長となり、諸規則の明文化、社史編纂などによる資料の整備、定年制の確立などに力を尽した。6年専務理事代理、14年理事に就任。昭和7年三菱を退社、大同燐寸社長。10年日本カーバイド工業を創立、以後30年間、86歳まで社長を務めた。
1.夏目漱石先生から英語を習う
明治26年(1893)の春、15歳で既に兄の入っている済々黌に入学した。私が3年のとき熊本県立中学済々黌となった。中学時代の思い出の一つは、漱石先生から英語を習ったことである。当時、五高の校長は講道館柔道の嘉納治五郎さんであったが、漱石は五高の少壮教授として迎えられ、済々黌の講師も兼ねていた。それまでの我々は、英語らしいものを習うには習ったが、漱石によってはじめて本当の英語に接したような気がした。しかし夏目先生としては「こいつらに英語を教えてもわかるまい」という気持ちがあったのか、英語そのものよりもシェークスピアやモンテクリスト伯、ジャンバルジャンなどの話をしてくれた。我々も面白いので「先生、何かお話をしてください」と頼むと、10~15分何か話してくれるのが常だった。
2.広田弘毅君の思い出
私たちは大学が明治38年(1905)の卒業なので、三八会という同期会をつくって親睦を図っていた。後年、広田君が近衛文麿公の後を受けて総理大臣になったとき、この会で就任祝賀会を開いたことがある。広田君は忙しい身なので、その会合にはチョッと顔を出した程度であったが、そこに集まった連中は「我々はみんなで広田君を助け、軍部の横暴から失敗のないようしていかねばならない。ところで一番懇意なのは奥村君だから君に頼もう」ということで、私が同期生一同の代表に選ばれた。
総理大臣室に広田君をたずねると、広田君は部屋にいた秘書や給仕に退室を命じ、「さぁ、何でも遠慮なく言ってくれ」という。私が三菱を辞めていたときなので、何かいい仕事はないかと相談に来たかと思ったらしい。そこで私は「実はこうなんだ」と三八会の意向を伝えた。広田君は非常に喜んで、自分の軍部などいろいろ苦衷を訴えながらも、決して見苦しいまねはしないつもりだと言った。
こうして1時間以上も語り合って別れたのだが、その広田君も結局は軍部に引きずられる形になって、戦犯として絞首刑にされてしまったことは誠に残念である。しかし彼の態度は最後まで誠に立派だったと思う。
3.小岩井農場の歴史
明治44年(1911)の秋、私は先輩の赤星陸治さんの後任に小岩井農場長を命ぜられた。この農場は明治24年(1891)1月上野を起点として青森まで鉄道が敷設された。その日本鉄道の発起人小野義真、岩崎弥之助、井上勝の三氏は、“交通のためとはいえ、この鉄道を敷くため多くの美田沃野をつぶした”として、この償いのため岩手県岩手山麓の原野開墾を企てた。この開墾地名として小野、岩崎、井上三人の姓の頭文字をとって「小岩井」と名付けた。この開墾地を途中から岩崎家が全部引き受けることになった。
まず小岩井農場を全国に知らせるためのパンフレット、絵はがき、写真集などを作成して大々的なPR活動を始めたのである。この小岩井農場が全国的に有名なのは、このためである。日露戦争で日本陸軍が最も悩まされたのはミスチェンコ将軍の率いるコサック騎兵の側面攻撃であり、また馬のけん引力の強弱が大砲の威力、すなわち戦争の勝敗のカギともなった。そこで軍馬の育成補充が軍部の最大目標となり、全国に軍馬補充部を設けた。馬政局が新設されて産馬については農商務省から独立した所管となり尽力。
一方、この頃欧米では酪農が盛んに行われ、日本でも人種改良、または体格の向上が叫ばれ、肉食や牛乳を常用すべきことが論じられた。その結果は育牛としても、多泌乳量のホルスタイン種を採り入れることとなり、45年からホルスタインの搾乳量のレコード作りが盛んになり、搾り方の技術向上にもなったのである。