芸術
| 掲載時肩書 | 写真家 |
|---|---|
| 掲載期間 | 2026/02/01〜2026/02/28 |
| 出身地 | 東京都目黒 |
| 生年月日 | 1943/05/28 |
| 掲載回数 | 27 回 |
| 執筆時年齢 | 82 歳 |
| 最終学歴 | 日本大学 |
| 学歴その他 | |
| 入社 | フリーランス |
| 配偶者 | 記載なし |
| 主な仕事 | ベトナム、パプア、カンボジャ、アフガン、アウシュビッツ、広島、長崎、沖縄、コソボ、福島、隠岐島、東京芸大、コロナ禍 |
| 恩師・恩人 | 鶴見和子、志村ふくみ |
| 人脈 | アフガン:グラク、清水ツルコ、井手久枝、小橋川カマ、 |
| 備考 | 戦争の惨状を写真と面談で現実を訴求する |
写真家の「私の履歴書」登場は、土門拳(1977.12)、秋山庄太郎(1993.6)に続いて、氏は3人目である。私は戦禍の記憶を、傷ついた人々を撮り、写真を見てもらうことで平和の意味を考えて欲しかった。写真に写った人と写真を見る人が結びついて欲しい。それが私の一貫した願いである、と書き、次のような現地に行き、生々しい証言を文章と写真で証言していた。
1.カンボジャの内戦実態
ポル・ポト政権が倒れた翌年の1980年1月、タイ側に設けられた難民キャンプを訪ねた。大人も子供も餓死寸前のように痩せ、瞳は怯えていた。彼らの話す内容は私にはにわかには信じられなかった。残虐な処刑、強制労働、飢餓、強制結婚・・・。あまりにも常識外れなのであった。
ポル・ポト派はまず夫と妻を別居させ、子供を引き離した。共産主義を徹底するためには家族の解体が必要だと考えたのである。次にインテリを殺した。強制収容の中にそれらしい人を見つけると、猫なで声で「あなたは上品な人ですね。こんなところに来て可哀そうに」と誘い水を向ける。「そうなんですよ」などと言ってしまえば一巻の終わりだ。その言葉が証拠となり家族全員が殺された。
美しい女性も危険にさらされた。ポル・ポト派の幹部は美人を見つけると自分の、あるいは自分の身近なものの妻になるよう要求した。断れば殺された。強制労働は苛酷だった。早朝4時に召集され、夜遅くまで
働かされる。食料の配給は1日2回。1.5グラムのコメの重湯と野菜の切れ端が浮かんだスープのみ。人々は栄養失調で次々と命を落とした。
2.べトナム戦争(同じ民族の戦い)
ベトナム戦争は同じ民族が大国につく側と民族自決を目指す側とに分かれ、銃を向け合った戦争である。1981年、復興に向けて動き出している人々の間にある隠然とした緊張感を感じずにはいられなかった。「誰が敵だかわからない」という警戒するまなざしにたくさん出合った。
サイゴンから230km海に浮かぶコンソン島は今はリゾートになっているが、戦中は残虐な監獄の島として世界中に知られていた。共産主義者と見なされた人はこの島に送られ、凄まじい拷問を受けたのである。ここに16年間も投獄されたスンさんに話を聞いた。彼は「トラの檻」の恐怖を話し始めた。真夏、2mX3mの狭い監獄にぎっしり囚人が押し込められる。座ることも横になることもできない。外に出られるのは1週間に1度、汚物を洗い流すわずかな時間だけ。衰弱した人がバタバタと死んでいった。若い娘たちは裸にされ、大勢の警官から見えるところに立たされた。看守はタバコの火をあちこちに押し当てたという。夫が足をもがれて殺された女性もいた。
3.アウシュビッツ経験者(葬儀は無意味な儀式だ)
1986年夏。強制収容所跡のあるアウシュビッツ=ビルケナウは夏草に覆われ、リンゴの木が盛大に葉を茂らせていた。戦後40年という時間の経過を強く印象付けられた。往時の痕跡は雄弁だった。ガス室の壁面には付着した薬剤が化学変化を起こしては奇怪な変色を見せ、人骨と人灰は山を成している。それらはおぞましさで私の心をからめとって放さない。そうしたものを写真に撮りはした。しかし、そのものずばりの生々しさは既に映画などでも多く伝えられている。私は歴史家ではない。過去に起きたことではなく、今を写し、それを今の人に伝えること、それが自分の仕事である。だから生存者の面会を重ねた。
クオジンスキ医師はこの収容所からの生還者だった。彼は「私は人間というものについて良く知っている。収容所を体験した人間からすると、普通の人の人間観は浅薄で、深みもない。私はね、葬儀に行っても泣くことはないのです。収容所であまりに残虐な死を多く見たから、葬儀など無意味な儀式に思える。聖歌を聞くと何だか奇妙な感じがしてね。笑いがこみあげてくるんですよ」と。
4.沖縄戦で日本人が行ったこと
本土復帰する前の沖縄に行くには、パスポートの他に身元引受人が必要だった。1972年の返還後直ぐに訪れた。沖縄戦の経験を語れる人がまだ多くいた時代だ。本土復帰の直前に週刊誌が掲載した記事が取り沙汰されていた。日本兵が久米島の住民20人を虐殺していたという内容である。
小橋川カマさんはそのときに夫を殺された人だった。仏壇から夫の写真を持ってくると畳の上に置き、「息子たちにはこの話をもうするなと言われているけど、忘れられない。許せない」と声を絞り出した。その憤怒の表情は忘れられない。「戦中、日本兵が怖かった」。人々はそう語った。日本の兵隊とすれ違う時は、恐ろしくて体が固まったという。スパイでないと証すための合言葉が出てこなかった人がその場で刀で切り殺された。そんな目撃をした人もいる。
沖縄にやってきた日本兵も精神的に追い詰められてはいた。現地住民がみな米軍のスパイに見え、疑心暗鬼に囚われていたのだろう。だが、そうであるにしても、壕に隠れていた人を追い出し、泣き声で敵に見つかってしまう理由で赤ん坊を殺すようなことができるものか。なぜそんな所業に及んだか。自分たちとは異なる生活文化を持ち、自分たちに判らない方言を話す人々に対する蔑みの心があったと思う。
明治政府が沖縄を編入した以降、本土の人間の心の中には沖縄の人々に対する侮りと差別の意識があったのだろう。それが沖縄戦における日本兵の残虐な行為に、そして現在の米軍基地をめぐる沖縄への過重な負担に繋がっている。私はそう考えている。
5.自分にできることは何か
私がこれまで撮ってきた写真は過去の戦争や災禍、心の傷、すべて目に見えないものだ。見えないものを伝えるのが私の仕事であるという自分の考えに沿って、人々を訪ね歩いてきた。「自分にできることは何か」という自問を繰り返す取材だった。その問いは写真家になってから私の心を一度も去らないものだ。自分にできるのは写真で伝えるしかないから、その小さな努力を粘り強く続けるだけである。事実は目に見える形で残しておかなければならない。
6.二人の師の励まし言葉
1)鶴見和子さん:社会学者で、とても上品で頭脳明晰な方である。お茶を飲みながら、あるいは食事をしながらゆっくりと話し合った時間はかけがえのない人生の宝である。鶴見さんは人が生きるということにまつわる全てを私に教えて下さった。アフガニスタンの取材から戻ってきたときにこんな1首をいただいた。
<アフガンの子らやいかにとカメラ肩に飛び立つ友よよく帰りませ>
紛争地に取材に行く私のことをいつも心配し、しかし「あなたの写真は歴史なのよ」と励ましてくださった。その言葉を忘れることはない。
2)志村文子さん:染色家で、生命に対する深い哲学を私に授けてくださった。蚕の命である絹糸。その絹糸を自然から賜った様々な色に染め、それを織って、着物として身にまとう。その意味の深さに粛然とした。志村さんは次のような言葉を揮毫してくださった。
<手によってすべての仕事は行われるー手の中に思考が宿っているといってもいいー私の掌の中で色は次第に自己を確立し、主張し、一色で立ち上がろうとしている>
鶴見さん、志村さんの仕事の大きさの前では、私のやってきたことなど何ほどのものでもない。気弱になっている場合かと自分を叱咤する。撮るべき人がいて、伝えるべきことがあるのだから、私はこの命のある限り撮り続けよう。