塚本憲甫 つかもと けんぽ

医療

掲載時肩書国立がんセンター総長
掲載期間1974/02/27〜1974/03/26
出身地東京都
生年月日1904/09/16
掲載回数28 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他静高
入社医局
配偶者銀行家娘(鈴木梅太郎仲人)
主な仕事癌研、放射線でガン治療、欧米視察、放射線医学総合研究所(放医研・千葉)、国立がんセンター
恩師・恩人実兄、稲田竜吉、長与又郎
人脈長沼弘毅(静高)、東竜太郎、渋沢敬三、田崎勇三、吉田富三、石館守三、久留勝、鳥飼信成
備考父東大農,母御茶ノ水出の教師
論評

1904年9月16日 – 1974年6月7日)は東京生まれ。医学者。専門は放射線医学。国立がんセンター総長を務めた。癌研究会附属病院の放射線科に入りがんの放射線治療にあたる。戦後茅誠司らの薦めで放射線医学総合研究所の二代目所長となる。久留勝の引きで国立がんセンター病院長となり、久留の後任として国立がんセンター総長となるが、自身ががんに罹り総長在職のまま死去。静岡高校時代以来の親友に大蔵次官長沼弘毅がいる。

1.ガン研究者に多いガン死亡
ガンの研究医師の中にも、ガンで死亡する人が少なくない。国立がんセンターの初代総長田宮猛雄、二代目の比企能達、癌研病院長だった田崎勇三、所長の吉田富三の各氏らもガンで倒れられたばかりでなく、日本のガン研究の草分けであった癌研の初代会頭青山胤通、三代目の長与又郎先生もまた、ガンのために世を去られたのである。しかし私も癌研時代、狭い施設と防護設備の不十分で、かなり放射線を浴び、白血球が少なくなっていた。

2.ガン治療の成功は混成チーム(癌研時代)の成果
幸い、癌研には各種のラジウムがあったため、新治療技術の開発に成功したが、これは放射線科医と物理学者の協力だけでなく、東大の耳鼻科の諸氏の技術援助によってはじめて可能となったのである。
 新しい放射線治療は耳鼻科領域だけでなく、田崎瑛生君らによって乳がんの領域にも拡げられた。癌研放射線科では乳がんに根治的大手術を行わず、ガンを乳房と共に切除し、腋下リンパ腺を摘出し、後に放射線をかける治療法を試み、かなりの成績を収めることができた。
 あえてこれらの業績を書いたのは、生物、物理、医学などの混成部隊のチームワークによって初めて生まれたからである。これまでの医療は医師の独善的な考え方にのみ支配されてきたばかりか、医療それ自身が外科とか内科とかの科別で、常に縦割りであった。しかしここ癌研ではヨコの見事なチームワークができたのである。

3.池田勇人首相の真の病名
1964年東京オリンピックの年、池田元首相は一般には咽頭がんで亡くなったと信じられているが、正確には直接ガンのためではなく、咽頭ガン手術後の胃の大出血が原因だった。
 政治的配慮から「前ガン状態」と新聞には発表されていたが、私が初めて診察した時、咽頭ガンとしては既に末期に近い状態であった。前々からテレビやラジオで池田首相の演説などを聞いていて、このだみ声では、咽頭ガンになっても初期には診断がつきにくいのではないかと考えたりしたことがあるが、私の勘は変なところで的中してしまった。だが、放射線治療は予想以上に素晴らしく効いて、局所は一時ほとんど治ってしまったかと思われたが、9か月後、放射線治療のために甲状軟骨の障害を起こしかけ、一方食道の上部と肺に転移の疑いが出てきた。前尾繁三郎大平正芳、鈴木善幸、黒金泰美、宮澤喜一、伊藤昌哉氏ら側近の人々から「声は出なくてもいいから、おやじに少しでも長く生きて欲しいんだ」と言われ、医師団の諸氏と話し合いの結果、それでは咽頭の摘出術を使うべきだとの結論に達した。
 東大病院での切替教授らによる手術そのものは完全に成功であった。手術後、池田さんの手に「手術は大成功」と紙に書いて見せた。これなら大丈夫と、私は所用のため一時東京を離れ、帰京した途端に比企総長から電話があり、「突如として胃の大出血を起こして亡くなられた」という報告を受けて唖然とした。
 私がここで池田元首相のことを書いたのは、今日ではかなり進んだガンでも治療が成功すれば、そのガンで死ぬとは限らないで、第二、第三のガンができるまで長く生きている人が少なくないということに触れたかったのである。

塚本 憲甫(つかもと けんぽ、1904年9月16日 - 1974年6月7日)は日本の医学者。専門は放射線医学国立がんセンター総長を務めた。

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