古賀信行 こがのぶゆき

金融

掲載時肩書野村ホールディングス名誉顧問
掲載期間2023/01/01〜2023/01/31
出身地福岡県
生年月日1950/08/21
掲載回数30 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他ラ・サール
入社野村証券
配偶者職場結婚
主な仕事人事部、引受部、総合企画(MOF担)、法人部長、社長、サブプライム、損失処理
恩師・恩人早坂正隆、鈴木政志、臼田浩義、
人脈北尾吉孝(同期)、田淵節也(秘書)、志茂明、氏家純一、中西宏明、山田淳一郎、
備考美点凝視
論評

氏はこの履歴書に登場した野村證券出身の奥村綱雄(1960.7)、瀬川美能留(1970.4)、北裏喜一郎(1979.11)、田淵節也(2007.11)、寺澤芳男(2011.11)、斉藤惇(2017.10)に次いで7人目である。印象に残った箇所は次の通り。

1.田淵節也さん(秘書時代)
1986年11月から2年間、当時の田淵節也会長の秘書を担当した。田淵さんは物事を大きくつかむのが上手だった。外国為替市場の売買規模や為替の大きな方向性、長期のチャートの形状などが、よく頭に入っていた。また、べったり張り付かなくても良い人でもあった。朝晩の送迎に秘書の同伴はなく、仕事が終わったら自由にせよという。財界では秘書を宴席の最後まで待たせる方もいたが、田淵さんは違った。
 秘書2年目は田淵さんが日本証券業協会の会長になったので、協会長秘書を務めた。懸案だったキャピタルゲイン課税の問題が決着すると、早々に「秘書はもういいんじゃないか」と言われ、お役御免となった。

2.バブル崩壊(総合企画室時代)
89年当時、野村證券をはじめとする証券会社は重く、微妙な問題を抱えていた。バブル期のカネ余りを背景に証券会社は企業の資金運用を任されていた。この「営業特金」という一任運用の仕組みは、株価が本格的に下がり始めたらとても持たない。
 危機感を抱いた大蔵省が営業特金を禁じ、解消を求めたのが89年暮れの角谷正彦証券局長名で出した通達だった。年が改まった90年は大発会から株価の下落が始まった。後に振り返ればバブル崩壊の始まりだったのだが、野村にとっては拠点刷新の時期にも重なっていた。
 90年8~9月には、東京・日本橋の本社からアーバンネット大手町ビルに、株式と債券のトレーディングルームが移った。10月には英国の中央郵便局だったビルに新拠点「ノムラハウス」を構えた。米拠点をワールド・フィナンシャル・センターに移すことを決めたのもこの頃だ。アーバンネットにはトレーディングルームだけでなく、社長室と会長室もつくられていた。経営トップもマーケットの近くにいた方が良いという判断からだ。しかし、バブル崩壊でそれらの部屋が使われることはなかった。

3.米国事業で巨額損失(社長時代)
08年のリーマンショックが起きる直前、米国金融市場を支配していたのは、企業はROE20~30%を確保すべきという投資家要求の空気だった。経営者は株主利益だけを考え、あらゆる努力を常に払うことを求められていた。この株主至上主義が行きつくところまで行き、大きくきしみ始めたのがサブプライム危機だったと思う。信用力の低い人への住宅ローンを束ね、証券化商品に仕立て全世界に販売する。収益性は極めて高く、株主利益の向上に資する業務だった。
 野村証券もサブプライム関連業務をしていた。だから米国で住宅ローンの焦げつきが増え始めると損失はみるみる間に拡大し、07年上半期だけでも1000億円を超える関連損失を計上した。自ら臨んだ臨時記者会見で早期に手を打てなかったことへの反省の弁を述べた。
 米国での住宅ローンの証券化ビジネス撤退を含む大規模な業務縮小、米国債公認ディーラーの返上など、巨額損失を出してからの行動は早い方だったと思う。それでも日本国内は批判と悲観が激しく渦巻いていた。

4.証券業界の変化(会長時代)
兜町は長らく野村、大和、日興、山一が確固とした力を持つ「4社体制」が機能していた。かっては4社が日証協の会長を順番に出し、業界にとって重要なことは4社会で決定していた。
 しかし次第に、銀行グループが傘下の子会社を通じて、本格的に証券業務を始めた。外資系証券も大幅に業務を拡大してきた。そして、ネット証券。顧客への働きかけをせず、注文が来るのを待つビジネスは革命的だった。一口に「証券会社」といっても、これだけ多様化が進むと個別の問題の利害が一致しなくなる。たとえば、証券税制を巡っても対面型の証券会社とネットでは主張が異なる場面が出てきた。
 かって「4社体制」が機能したのは、中小は中堅を目指し、中堅は大証券を目指す、同じ方向を向いてそれぞれの成長を模索する、そんな相似形の構造が成立していたからだと思う。証券会社の多様化の進展が「4社体制」を消滅させたのだと私は思う。

5.中西宏明さん(経団連時代)
2018年(平成30)から、私は経団連の審議員会議長を務めたが、そのときの会長が日立製作所の社長・会長を務めた中西宏明さんだった。残念ながら21年にお亡くなりになった。経営者として日立を立て直し、経団連会長に就任してからは就活ルール見直しなどの先頭に立った。多くの功績を様々な人が語り継ぐ。その人物に間近で接することができたのは、私にとって大変に幸せなことだった。
 ずばりと本質をついて方向性を示す方だった。たとえば就活ルールだ。経団連だけで決めるのはおかしいから見直そうという話を、内々に中西さんと私はしていた。中西さんは18年6月の会長会見で、終身雇用や新卒一括採用などは成り立たなくなっているとまで踏み込んだ。想定外の発言に、経団連の内外に驚きが広がった。しかし、あの発言をきっかけに産学協議会ができで、経済界と大学側が採用だけでなくいろいろと話し合おうということになった。
 刺激をポンと与え流れをつくる。シナリオにないことを起こす。私とは全く違うタイプだった。ご健康であれば、私は無用の長物だったかも知れない。あれほど合理的な人物は見たことがない。

こが のぶゆき

古賀 信行
2019年大阪市内にて
生誕 (1950-08-22) 1950年8月22日(74歳)
日本の旗 日本福岡県大牟田市
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京大学法学部
職業 実業家
肩書き 日本放送協会経営委員会委員長
栄誉 旭日大綬章(令和5年)
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古賀 信行(こが のぶゆき 1950年8月22日[1] - )は、日本の実業家野村ホールディングス取締役執行役社長兼CEOを務めたほか、日本経済団体連合会審議員会議長、交通政策審議会会長などを歴任した。

  1. ^ 野村ホールディングス株式会社(E03752) 第155期(平成30年4月1日―平成31年3月31日) 有価証券報告書
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