掲載時肩書 | 日債銀会長 |
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掲載期間 | 1991/04/01〜1991/04/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1912/02/02 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 府立一高 |
入社 | 朝鮮銀行 |
配偶者 | 西園寺侯秘書原田娘(児玉源太郎長男仲人) |
主な仕事 | 米国、陸軍企画院、東条暗殺計画(里見弴)、終戦前夜、日本不動産銀、日債銀、「重臣たちの昭和史」「朝鮮銀行史」 |
恩師・恩人 | 藤井丙午、稲山嘉寛 |
人脈 | 大佛次郎、大山郁夫、笠信太郎、安部磯雄、里見弴、鈴木貞一、近衛泰子夫人、東久邇稔彦 |
備考 | 父(大蔵大臣)友(秋山真之、正岡子規、浜口雄幸)、油絵 |
1912年2月22日 – 1991年5月28日)は東京生まれ。元日本債券信用銀行会長。朝鮮銀行入行後、日本不動産銀行(のちの日本債券信用銀行)に入り、常務、副頭取、頭取を歴任。父は朝鮮銀行総裁、大蔵大臣等を務めた勝田主計。妻は西園寺公望の秘書・原田熊雄の娘。『重臣たちの昭和史』『中国借款と勝田主計』を著す。戦後、朝鮮銀行の親子二代の頭取となる。東北の政商の異名を取った福島交通の小針暦二と取引を開始する。1975年に会長、1988年に名誉会長となるも代表取締役のままだった。亡くなるまで日債銀のドンとして君臨する。この間、1977年に日本不動産銀行は日本債券信用銀行と改称した。
1.滝川事件で演説
昭和8年(1933)、京都大学に入学すると4月に滝川事件が起きた。法学部の滝川幸辰教授の著書「刑法読本」と「刑法講義」が、学生および一般社会に悪影響を及ぼしたとして内務省から発禁処分を受けたうえ、文部省が小西京大総長に対して、滝川教授に辞職を勧告、もし応じなければ休職を命じるように要求した事件だった。小西総長は1か月後に鳩山一郎文部大臣と会見して、文部省の要求を拒否すると返答すると、文部省は5月25日に文官高等分限委員会を開いて、滝川教授の休職を決定し、翌26日の閣議を経て発令してしまった。
この日の夕方、第一教室に集まった我々法学部の学生の前に、法学部の教授以下全教官が顔を揃えた。宮本法学部教授が、教授会全員の辞表を小西総長に提出したと発表して、訣別の挨拶を述べ、この後学生大会で総退学の決議がなされた。私も学生大会で壇上に駆け上がって、「勝利は既に京大法学部のものとなった以上、虚心坦懐小事を捨てて、法学部再建に努力するのが我々学生の任務だ。・・・・滝川教授を除く全教授の復職に全力を注ぐことが、現に我々の為すべき唯一の仕事である」と演説した。
2.珍話:東条首相暗殺計画
私は戦後になって里見弴さんの東条暗殺計画を聞いた。未公開の珍話なので紹介する。里見さんの兄の有島生馬画伯の夫人が、岳父・原田熊雄の妹だったこともあって、原田と里見さんは親しかった。戦況の悪化、生活の窮乏化、それに憲兵や特高の弾圧もあって、どうしようもない怒りを覚えて計画を考えた。
「とにかく、一日も早く日本の軍部がなくならなくちゃいけないと、一番の元凶は東条、あいつの悪さってものはね、原田の記録の校正を僕はやっていただろう、つぶさにわかるわけだよ。こうこうしている奴だと。ともかくあれを殺したらどうかと。得物はピストルだ、生馬と隆三がピストルを持っていたからね。・・・・製薬ワカモトの長尾の家には、杉山元治郎(参謀総長)なんて奴が来ていたよ、酒が好きでね、いつまでも飲んでいるんだ。そういう機会があるから、東条に会うこともあるわけだ。それで、ワカモトの広い庭に、大きな池があって、そこに八つ橋というけど、細い橋がかかっているんだ。狭いから否応なしに一人だ、右にも左にも逃げられない。それでワカモトにいってだね、東条を呼びなさいといって、庭案内とか何とか言って連れ出して、橋の上で後から撃とうと・・・。その後、トントンと死骸を踏み越えて向こうの岸へ行って、自分の頭を撃って死ぬと・・・。天子様に宛てた手紙を書いて、軍の悪さを、こういうものがあっちゃ駄目だと、あなた、しっかりなさい、さっさと負ける、戦争を止めろと。そういう意味の上申書を懐に入れて死んじまう、計画だった」。
里見さんは、一度この計画を思いつくと「もう寝ても覚めてもその場面を繰り返し繰り返し考えて」、とうとう神経衰弱になってしまったという。「まぁ、怖くて嫌だったかもしれないけれど、実行するという考えが纏まらなかった」ので、東条暗殺計画は日の目を見なかった・・・という次第だ。
3.朝鮮銀行→日本不動産銀行→日本債券信用銀行へ
昭和27年(1952)4月にサンフランシスコ講和条約が発効して、日本は独立を達成した。これによって朝鮮銀行などの閉鎖機関についても、占領時代の「息の根を止めて清算しちまえ」という方針を転換して「残存財産をもって新会社を設立する途を開く」ことになり、翌28年には、元副総裁の星野喜代治さんが朝鮮銀行の特殊清算人に選任された。私は星野さんの要請に従って、30年に清算事務所に入り、まず新会社設立構想を再検討した。27年12月に長期信用銀行法が施行され、日本興業銀行がこの法律に基づく銀行に転換し、新たに日本長期信用銀行法も発足していた。この長信法による新銀行を設立して、時宜にあった金融を幅広くやれるようにしたいというのが、私の構想だった。
昭和31年(1956)3月末の衆議院大蔵委員会で、一万田蔵相が、「特に中小企業を相手として不動産担保の金融をするという銀行の設立申請があれば、許可してよかろう」と答弁された。その後、大蔵当局と毎日のように新銀行の設立案を協議し纏め、8月11日に最終案がまとまった。結局、朝鮮銀行の残余資産70億余円から、在外店舗の送金為替と外地預金、従業員の退職金などを支払い、新銀行の資本金は10億円、資本準備金8億円で発足することになった。翌32年4月1日、日本不動産銀行が千代田区九段の日本銀行分館で開店した。初代頭取は星野さん、当時45歳だった私は、役員9名という枠をはみ出したので、役員待遇として総務部長を務めた。
昭和44年〈1969〉10月、私は頭取に就任した。57歳だった。星野さんの後、中村建城さん、湯藤実則さんと続いて、4代目だった。中村さんは、大蔵省を主計局長で退官されて国民金融公庫総裁から当行に来られ、湯藤さんは朝鮮銀行出身で銀行創立時に常務だったから、行員から頭取になったのは私が初めてだった。国際化時代が到来し、金融業務に、国内、国外の区別がなくなり、海外拠点のない銀行は生き残れないとして、私は46年にニューヨーク駐在員事務所を開設、ロンドン、フランクフルトと続け、49年には、ロンドン事務所を支店に昇格して、最初の外債を発行した。
すると「不動産銀行がなぜ海外にでるのか」という意見が、内外共に強かった。そこで行名がそんな誤解を生む面もあったので、52年(1977)に、行名を日本債券信用銀行に変更したのだった。