掲載時肩書 | 虎ノ門病院院長 |
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掲載期間 | 1971/07/13〜1971/08/10 |
出身地 | 石川県 |
生年月日 | 1902/10/08 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 母校講師 |
配偶者 | 沖中に養子 |
主な仕事 | 18年間無給、歯科医を医師に講義、剖検率90%目標、日本神経学会、虎の門病院、天皇一家侍医、よど号事件 |
恩師・恩人 | 呉 建教授、稲田竜吉教授 |
人脈 | 石本雅男、駒井健一郎、堀辰雄、榊原仟、野田卯一、吉利和、日野原重明 |
備考 | 父軍人(大佐)、16年間剖検率86.2%、誤診率14.2% |
1902年10月8日 – 1992年4月20日)は石川県生まれ。内科学者。東京大学名誉教授。1946年坂口康蔵の後任として44歳で東京帝国大学医学部(後東京大学医学部)医学科内科学第三講座教授。第二内科出身者が、第三内科の教授に就任することは異例であった。自律神経系の研究を行い、内科学の専門分科を主張して神経内科を確立した。1963年東京大学退官時の最終講義での自身の教授在任中の誤診率(14.2%)の発表は有名。日本内科学会総会出席のため福岡行きの便に乗った際、よど号ハイジャック事件に巻き込まれて人質になったこともある。
1.恩師・呉 建教授の訓え
呉先生は、ことあるごとにこうおっしゃった。―研究には困難な壁にぶつかることは避けられない。テーマが前人未踏のものであり、雄大であればあるほど、壁は厚く、険しい。しかし、この壁はいかに大きな岩石であっても、氷の岩である。研究者が熱意をもって、辛抱強くぶつかっていけば、いつかは岩は溶け、新しい道は開けるものであるーと。呉先生はさらに「研究の進め方は、まず大きな道を切り開くことである。方向が正しければ、後の人が必ず舗装し、立派なものにしてくれる」と教えられた。私は呉先生のこの箴言を心に秘め、実行してきたつもりである。
2.石橋湛山首相を診断(その退陣の裏面)
石橋氏は昭和31年(1956)12月に鳩山一郎氏のあとを襲い内閣総理大臣および自由民主党総裁に就任した。ところがそのころから、からだの具合が悪くなり翌年1月20日からの第26回通常国会に出席できなくなった。主治医の村山富治、杏雲堂病院院長佐々廉平両氏の診断では「老人性肺炎のため、二週間の就床安静と、その後一週間の静養を要す」ことになり、施政方針演説も行えない。やむなく政府は首相臨時代理に岸信介外相をあて、演説も代行という異例の措置をとった。
野党は国会に出られない首相に退陣を迫るし、与党内でも反主流派の動きは活発になってくる。あと1、2週間すれば全快して首相の激職に耐えられるのか、その見込みがないのか、政府はギリギリのところに追い込まれた。そこでタイムリミットの2月22日午後6時から最終診断を行うことになり、二人の主治医の他に聖路加病院院長橋本寛敏氏と私が名指しされたのである。
石橋邸には5時に乗り込んだ。6時から4人による診断を行ったが、主に診たのは私である。病状はやはり私の予想通り肺炎、不整脈、言語障害などが併発しており、早急に全快するとはとても思えない。しかも臨床上、私の得意とする分野の病状であっただけに自信をもって断をくだした。生命にかかわる性質のものではないが、首相の激務にとても耐えられる状態ではないと。
6時半に診断が終わり、9時半の記者発表までの3時間、4人の医師と首相側近の方々とで協議の結果、2か月間の静養ということで落ち着いた。このことは首相の職を辞さなくてはならないことを意味する。それにつけても石橋氏の態度は立派であった。結果を聞いても眉一つ動かすことなく、静かに従われた。
3.最終講義で、あえて誤診率を発表
昭和38年(1963)3月4日、教授になってから824回目の、そして最後の講義の日である。取り上げたテーマは「内科臨床と剖検による批判」という非常に地味なものであった。ところがこの中で「私の教授在任中の誤診率は14.2%である」と発表したことが社会全般にも一般の医師の方々にも大きな波紋となって広がった。誤診率を発表するのは、自分の至らなさを晒すわけだから、本来恥ずかしいものである。しかし医学を志す学生たちに「徹底的に診断しても、厳格な基準の下では、誤診はこんなに出る。医学とはむずかしいものなのだ」ということを言うために、あえて苦い経験を披歴した。今もって語り草にされようとは夢にも思わなかった。正直なところ意外な反響の大きさに、こちらの方が驚いたくらいである。
おきなか しげお 冲中 重雄 | |
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1955年 | |
生誕 | 太田重雄 1902年10月8日 石川県金沢市 |
死没 | 1992年4月20日(89歳没) 東京都港区 |
墓地 | 大善寺 (八王子市) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学 |
職業 | 大日本帝国海軍軍医少尉 東京帝国大学第三内科教授 虎の門病院院長 宮内庁内廷医事参与 日本学士院会員 |
代表作 | 自律神経系の研究 |
影響を受けたもの | 呉建 |
前任者 | 坂口康蔵 |
受賞 | 日本学士院恩賜賞 文化勲章 勲一等瑞宝章 従三位 |
冲中 重雄(おきなか しげお[注釈 1]、1902年〈明治35年〉10月8日 - 1992年〈平成4年〉4月20日)は、日本の内科学者。東京大学名誉教授、元日本学士院会員。日本学士院恩賜賞受賞。文化勲章受章。勲等は勲一等瑞宝章。位階は従三位。石川県金沢市生まれ。
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