掲載時肩書 | 女優 |
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掲載期間 | 2023/12/01〜2023/12/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1941/06/29 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 松竹歌劇団 |
入社 | 松竹 |
配偶者 | 再婚・小六禮次郎(作曲家) |
主な仕事 | 童謡歌手、松竹映画、下町の太陽、男はつらいよ、遥かなる山の呼び声、舞台・知床旅情、駅、地域交流 |
恩師・恩人 | 長田暁二、山田洋次 |
人脈 | 三木鶏郎、永六輔、草笛光子、滝沢修、ハナ肇、渥美清、高羽哲夫、森繁久彌、高倉健、西田敏行、山田邦子、吉岡秀隆 |
備考 | 妹・美津子(夫・アントニオ猪木) |
彼女は、女優としては年齢順に東山千栄子、水谷八重子、杉村春子、田中絹代、ミヤコ蝶々、山口淑子、森光子、香川京子、山本富士子、岸恵子、吉行和子、佐久間良子、浅丘ルリ子に次いで14番目の登場である。歌劇団出身は、宝塚が天津乙女、春日野八千代、有馬稲子、扇千景の4人に対し、松竹(SKD)では草笛光子に次いで2番目。歌手としては、長門美保、宮城まり子に次いで3番目である。歌手、映画、舞台の芸の奥義を求めた経験を通して、共演者から学んだことを率直に語ってくれた。
1.「下町の太陽」の経緯
キングレコードの敏腕ディレクター長田暁二(おさだぎょうじ)さんが、「歌える映画スター」を探して「私のレコード」を出したいと持ち掛けてきた。当時、流行歌を題材にした歌謡映画がブームになっていた。
レコード各社はテイチク(石原裕次郎さん)、コロムビア(小林旭さん)、ビクター(吉永小百合さん)などドル箱スターを抱えていたが、キングだけが後れを取っていた。長田さんは私が所属の松竹からも最終的な承諾を取り付け、満を持して企画したのが「下町の太陽」だった。これは実際に下町で育った私のイメージを膨らませて作った曲で1962年にリリースされた。
長田さんは私を全国に売り込もうと数か月、手弁当でレコード店を回り、不眠不休で放送局に無数のリクエストハガキを送り続けた。そんな地道な努力が功を奏し、遂に人気に火が付いた。この曲がヒットしたお陰で私は62年度レコード大賞新人賞を受賞。翌年には初の主演となる同名の映画が公開され、山田洋次監督と出合う。
2.滝沢修さん
1965年に公開された「霧の旗」は松本清張さんの小説が原作で山田洋次監督の唯一のサスペンス映画。私は「下町の太陽」に続いて主役に抜擢されたが、筋書きを聞いて思わず足がすくんだ。高名なベテランの男性弁護士にお酒を飲ませて色気で迫り、自分から肉体関係を結んで社会的に葬り去る復讐劇だという。しかも相手役は「新劇界の神様」滝沢修さん。(男性を口説いた経験もないし、演技でも太刀打ちできるわけがない・・)。プレッシャーに押しつぶされそうになった。もう体当たり、捨て身で挑戦するしかない・・。
びっくりしたのは滝沢さんの迫真の演技。最初は戸惑いつつ誘われるままにお酒をグイッと飲み干すと顔が見る見るうちに真っ赤に染まってゆく。この時、滝沢さんが飲んでいたのはお水。演技直前に息を深く吸い込んだまま止め、渾身の力を込めると1分ほどで目が充血し、こめかみに血管が浮き、顔が腫れて赤銅色になる。素面なのに本当に酔っているとしか思えない。(なるほど。すごい!)
3.「寅さん」の山田組
映画で繋がる家族だった。人生の学校でもあった。「映画を撮るとはみんなで心と力を合わせて一つの大きな山を登るみたいなもの」、山田洋次監督がこう仰っていたが本当にそうだと思う。
主役は渥美清さんが扮する寅さん。テンポの良い口上に絶妙の間合い。軽快なアドリブも入る。山田監督も台本に必ずしもこだわらず、現場から生まれた即興のセリフや演技をとても大切にした。渥美さんが口上を始めると情景が目の前にパァーと浮かぶ。周囲が合いの手を入れ、演技を重ねることで芝居が波紋のように広がってゆく。演技者同士で支え合い、響き合い、張り合う。真剣勝負のハーモニー。気は抜けないがお芝居の醍醐味かも知れない。
役者だけではない。照明さん、音声さん、大道具さん、小道具さん、衣装さん、結髪さん、メークさん・・。脚本家、プロデュ―サー、監督も含めてみんなが協力しないと良い映画は生まれない。そこには主役も、脇役も、裏方も違いはないと私は思っている。
山田組の右腕カメラマン、高羽哲夫さんにも大変お世話になった。さしずめ「山田学校の先生役」だろうか。細身のドングリみたいな風貌。甲高いがやわらかな声で話す。「倍賞さん、ファインダーを覗いてごらん。ここに立つとカメラにはこう写る。ワイドならここまで、望遠ならばここまで入るんだよ」。自分の姿や演技がどう写るのかを分かり易く教えてくれた。それが以後の仕事にどんなに役立ったことか・・・。演技がうまくいくと高羽さんの目が眼鏡の奥で優しく微笑む。それがOKの合図だった。
4.森繁久彌さんの舞台
森繁さんからは様々な貴重な経験をさせていただいた。まずは舞台での演技法。舞台は映画やテレビと違い、カメラのアップや切り返しがない。だから常にどこからでも数百人、数千人の観客に見られていることを意識しないといけない。後ろ姿だけで様々な心境を表現する方法があることを知って驚いた。体の動かし方、目線のそらし方も舞台は全く違う。後ずさりするのに肩を落とすのか、首を残すのかで動きの意味が変わってくる。声の出し方もマイクが小さな音まで拾ってくれる映画やテレビと違い、遠くの観客に届くように大きくはっきりと話す。
私は松竹歌劇団(SKD) の時代に東京・浅草の国際劇場で舞台を少しかじったつもりでいた。でも舞台歴が長い名優、森繁さんの所作はいつも勉強になることばかりだった。「屋根の上のバイオリン弾き」で森繁さんは主役テヴィエ、私は次女ホーデルを何回も演じた。劇中でも父娘役だが、お稽古やオフの際も本当の娘のようにかわいがっていただいた。森繁さんは「チコ、チコ」、私は「パパ、パパ」と互いに呼び合った。
「チコ、来てごらん。面白いものを見せてあげるよ」。呼ばれて楽屋に入ると森繁さんが楊枝をくわえている。何をするかと思ったら、歯で嚙んで先を柔らかくし、醤油を絵の具代わりにしてトンボや竹の絵をサラリと描く見事な瞬間芸を見せてくれた。
5.高倉健さん
初めて共演することになったのは1977年公開の「幸福の黄色いハンカチ」。「怖い人かな?」勝手にイメージを膨らませて不安だった。しかし(眼力が強い。格好いい。スターのオーラもある。それなのに全く偉ぶらない)これが健さんの第一印象。「男はつらいよ」で私は渥美清さんのアカギレみたいな細い目をずっと見て来たからそれだけでも新鮮だった。
健さんとは「遥かなる山の呼び声」「駅 STATION」でも共演する。私が「駅」で演じたのは居酒屋を独りで切り盛りする女将。忘れもしないワンシーン。大みそかの晩、私は看板を下ろした自分の店で紅白歌合戦を見ながら健さんと熱燗を呑む。優しく肩を抱かれ、二人だけで過ごす静かで濃厚な時間。テレビから流れてくる八代亜紀さんが歌う「舟唄」・・・。「あ、いいなぁ、この歌・・・私大好き・・・」彼の腕の中で指を絡ませる。命の火が激しく燃えた。42年たっても「舟唄」を聞くとあの熱い夜を思い出す。
ばいしょう ちえこ 倍賞 千恵子 | |||||||||||||||
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『小説倶楽部』1962年3月号より。 | |||||||||||||||
生年月日 | 1941年6月29日(83歳) | ||||||||||||||
出生地 | 日本 東京都豊島区西巣鴨 (東京都北区滝野川[1]育ち) | ||||||||||||||
血液型 | B型 | ||||||||||||||
職業 | 女優 歌手 声優 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画 テレビドラマ | ||||||||||||||
活動期間 | 1954年 - | ||||||||||||||
配偶者 | 小六禮次郎[1] | ||||||||||||||
著名な家族 | 倍賞明(弟) 倍賞美津子(妹) 倍賞鉄夫(弟) | ||||||||||||||
公式サイト | 倍賞千恵子 オフィシャルウェブサイト | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
テレビドラマ 『太陽ともぐら』 『お姉ちゃん』 『ぼくの姉さん』 映画 『下町の太陽』[1] 『男はつらいよ』[1]<シリーズ全50作> 『幸福の黄色いハンカチ』[1] 『遙かなる山の呼び声』 『駅 STATION』 『PLAN 75』 劇場アニメ 『劇場版 機動戦士ガンダムI』 『ハウルの動く城』 『天気の子』 | |||||||||||||||
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倍賞 千恵子(ばいしょう ちえこ、1941年〈昭和16年〉6月29日[1] - )は、日本の女優、歌手、声優。愛称は「チコちゃん」。
妹は女優の倍賞美津子。弟は日産自動車硬式野球部元監督の倍賞明[注釈 1]、新日本プロレスリング元専務取締役で二代目リングアナウンサーの倍賞鉄夫。夫は作曲家の小六禮次郎[3]。
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