長門美保 ながと みほ

芸術

掲載時肩書長門美保歌劇団会長
掲載期間1982/11/06〜1982/12/03
出身地福岡県
生年月日1911/06/23
掲載回数28 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
東京音楽大学
学歴その他
入社研究科 キング
配偶者鈴木雄詞
主な仕事オペラステージ、軍艦、歌指導(原節子 、山根寿子、高峰秀子)、歌劇団創設
恩師・恩人フェルマー (オペラ)
人脈藤山一郎(同期)、藤原義江(音符読めず)、山田耕作、杉村春子、オテナの塔、岡田嘉子、安達瞳子
備考ダルトン教育
論評

1911年(明治44)6月23日 – 1994年(平成6年)11月11日) :福岡県生まれ、ソプラノ歌手。
幼時をドイツで過ごす。東京音楽学校在学中にマーラーの交響曲第二番のソリストとなる。1933年同校を卒業。1934年の第3回日本音楽コンクールで第1位に入賞し、ドラマチック・ソプラノとして藤原歌劇団の「ローエングリン」「フィデリオ」などにフリーで主演し声楽家として活躍。
戦後は夫の鈴木雄詞と長門美保歌劇団を結成、1946年11月「蝶々夫人」で旗あげ公演を行った。訳詩・演出も手掛け、東欧圏のオペラや「ミカド」をはじめとする大衆に親しみやすいオペレッタの紹介などオペラ運動に邁進。ヨーロッパ各国から数々の勲章を受章する。

1.帰国子女のメリット
私は父親が貿易関係の仕事をしていた関係で、3歳でドイツに家族と一緒に渡った。第一次世界大戦の後、小学校に上がるとき、日本に帰国した。日本に帰ると、ほどなくしてドイツ語はほとんど忘れてしまい、ドイツ語を話していたことが、信じられないくらいであった。
 しかし私の場合は、日本の風土や文化を、いったん海外に出た後で知るという結果になったのだが、この経験は後のオペラ演出などをするとき、たいへんに役立った。外人が、初めて日本文化に接するときの、その感覚が、子供の感覚だったとはいえ、ある程度理解できるからである。例えば、「蝶々夫人」で、ピンカートンが日本の風物を珍しがる場合でも、その心の動きを演技として表現するにはどうすればよいか、外人の気持ちになって考えられるということなのだ。

2.上野音楽学校の発声教育法
この学校(現東京芸術大学)の教育は、要するに基礎からみっちり叩き込むという方法であった。音程は実にやかましく言われたし、発声訓練も厳しかった。例えば発声教育の一環として、「発声体操」というのがあった。タイツをはいて、乙女たちが足を上げたり下げたり、床の上で様々な格好をとりながら声を出す。これはオペラに絶対必要な訓練で、どんな形の演技をしながらでも、キチンと美声が出るようにし、またブレスを長く使うための修練だった。床の上そのままでは痛くてかなわないから、ゴザなどを敷いてやっていたが、先生はドイツのネトケレーべ先生で、「息をいかに大切に使うか」などをずいぶん教え込まれた。「20で吸って、30で出すように」と言われ、横隔膜の上に本を置いて長く息を止めておくなどの、肉体の基礎訓練が続いた。
 おかげで地声でもあったが声量がつき、軍艦のような大きな声を出すので戦時中の戦艦長門をもじり「グンカン・ナガト」をあだ名された。

3.女優に発声法を
昭和10年{1935}代になると、現東宝映画の社長さんから、娘だけでなく女優さんたちにも声楽を指導してほしいと依頼された。その理由は、当時映画会社のロードショー公開の前とかあるいは合間に、女優さんたちが挨拶代わりに映画館で歌を歌うことが多かったのである。その歌も流行歌めいたものでなく、クラシック系、例えばフォスターの歌曲などで、そのためレッスンを必要としたのだった。東京・世田谷の自宅と会社で教えることになった。
 レッスンを付けたのは、原節子さん、清川虹子さん、細川ちか子さん、山根寿子さん、それに高峰秀子さんもいた。当時から既に評判の女優さんで、私より年上のひともいたが、後で聞くと、私のレッスンは厳しいもので「怖い先生」だったのだと言う。

4.テレビ・アーティスト・スクールの開校
昭和30年(1955)、テレビの時代が来ることをいち早く察知して、主人の鈴木雄詞は戦後日本で初めてのテレビ・アーティスト・スクールを開校した。生徒を募集したところ、50人どころか150人ほども集まりびっくり仰天、校舎は足りずに大騒ぎになり、急いで新たに部屋を借りねばならなかった。
 生徒さんの中には今活躍してる三遊亭円楽さんや女優さんが出てくれたのも楽しい思い出である。講師陣は、演劇面では水谷八重子杉村春子、山本安英の皆さん方で、私も主人も手伝いました。

5.総合芸術(コンセール・アミ)の創造
昭和39年(1964)の東京オリンピック開催の年に、総合芸術の新しいことを始めたくて、声楽、各器楽、邦楽、日舞、華道、茶道、バレエ、書道など、幅広い分野の人たちと組んで、コンセール・アミを結成した。若い芸術家たちに世界の舞台や世に出る機会を与えようとの考えもあった。私と主人の発案で、多くの芸術家に呼び掛けたのだった。
 例えば、毎月一回コンセール・アミの演奏会を開き、その回数も200回近くになった。ここではオーディションも開き、特に優秀な人材を声楽、器楽の中から選び、海外へ給付留学生として出し、少なくとも3年間は現地で勉強させるようにした。この企画は若い人にたいへん喜ばれ、これを通じて今日までに優秀な音楽家が出ていることはうれしい。

美女と才女
長門美保
長門 美保
生誕 1911年6月23日
出身地 日本の旗 日本福岡県若松市
(現: 北九州市若松区
死没 (1994-11-11) 1994年11月11日(83歳没)
学歴 東京音楽学校研究科修了
ジャンル オペラ
職業 声楽家ソプラノ
歌手
オペラ歌手
翻訳家(訳詞家)
歌劇団主宰者・総監督
オペラ演出家
活動期間 1933年 - 1994年
著名使用楽器
声楽

長門 美保(ながと みほ、1911年(明治44年)6月23日[1] - 1994年(平成6年)11月11日[1])は、日本の声楽家ソプラノ)、歌手オペラ歌手、翻訳家(訳詞家)、歌劇団主宰者・総監督、オペラ演出家。本名は鈴木 美保[1]

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